小春日和の一日、甲斐武田氏の史跡巡り  2023/11/16

甲斐の武田氏史跡巡り

武田信玄

予定通りならば前回の十一面観音巡礼で年内は終了の筈でしたが、これが日帰りになってしまった為に再度紅葉見物に出掛けることになりました。
近場の紅葉名所を探してみたものの、なかなかいいところが見つかりません。そこで紅葉を見る事をメインにするのではなく、ダメ元でもいいから、紅葉もよかった、と言えるような場所を探してみました。当然、紅葉だけでなく他の何かが近くにある場所になります。
そんな都合の良い場所があるのか?と地図上でいろいろ探してみました。
探したところで近場で紅葉が綺麗で、他にも観光名所があるところなど、そうそうあるものではありません。
県内では見つからなかったので、山梨県内を探したところ、武田氏に係わる史跡はあちこちで見つかりました。でも紅葉は?

山梨県の甲州市から日川沿いに大菩薩に向かって上がっていったところに竜門峡という渓谷があり、紅葉の名所となっていました。紅葉の時期もうまく合いそうです。
11月16日、紅葉の時期が合うのかどうかは分かりませんが、武田氏の史跡巡りとあわよくば竜門峡の紅葉を目当てにいつもの寺参りメンバーで出掛けてみました。

今回は前回ほど遠いわけでも無いので、それ程早く家を出ることも無いでしょう。
のんびりとam7:00 清水いはらICスタートです。
まず目指すのは「武田神社」。ここはかなりメジャーな所なので皆さん一度は行っているのでしょうが、自分は行ったことなかったのでお付き合いして頂きました。

武田神社

武田神社

武田神社は信玄の親、信虎が永正16年(1519)に石和より移した躑躅ヶ崎館跡に鎮座しています。この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住し、昭和13年には国の史跡として指定されています。
しかし、武田神社の歴史はそれ程古いものではなく、大正4年大正天皇即位に際し武田氏を慕う県民に武田神社創建の気運が沸き上がり、官民一体となった「武田神社奉建会」が設立され、浄財によって大正8年に社殿が竣工しています。このように、この地に古くからあった神社ではありません。

武田家の栄枯盛衰甲斐紅葉  一秀
武田神社本殿

境内のモミジは綺麗に色付いていて、紅葉見物にもなりました。御朱印を頂いてザッと見て廻り、ここは良しとしました。
信玄の墓所は恵林寺で、その死から3年後に葬儀が行われ埋葬されました。

武田神社の近くには、3年の間喪を隠せ!という信玄の遺言から、一時的に墓所となった信玄の墓があります。
すぐ近くなので寄ってみました。

武田信玄墓所 信玄の火葬塚

信玄墓所
戒名は「法性院機山信玄大居士 」 天正元年癸四月十二日薨

駐車場も無いような場所に小さな墓所がありました。信玄の遺骸は武田家家臣・土屋氏の邸跡であったこの地で仮埋葬され、また、この地で火葬されたことから、「信玄の火葬塚」とも呼ばれています。
信玄の遺骨が埋められていると伝わる墓はこの他にも、佐久市岩村田の龍雲寺、高野山、京都妙心寺などがあります。
墓参りを済ませ、雲峰寺に向かいます。

雲峰寺

雲峰寺本堂

甲府盆地の北の端を東に進んで甲州市に入り奥多摩に続く国道411号線を東に進むと大菩薩嶺に向かう県道201号線に分岐します。この県道を1Kmほど進んだところにあるのが雲峰寺です。
寺伝によれば行基が修行に訪れた際、霊雲が瞬き大地を震わせ、高さ15mの大石が真二つに割れの石の裂け目から萩の大樹が生え、十一面観音が出現したといわれています。こうした故事から山号は裂石山となりました。

雲峰寺は甲府の鬼門に位置するため、「甲斐国志」によれば武田氏の祈願所となっていたと伝わります。

奉納の武田の軍旗雲峰寺悲喜こもごもの染み幾多

宝物館には日本最古の日の丸や風林火山の旗(孫子の旗)が保存されており、特に孫子の旗はかつては現存する全てがこの寺にありましたが、恵林寺の住職との賭け事に負け、一本を取られてしまったとの説明でした。
境内には樹齢700年を越えるという桜の古木があり、まだ元気に花は咲くようです。

鰐口

この説明してくれた住職が面白い方で、結構時間を忘れて話に聞き入ってしまいました。
以前来た時には下の駐車場に売店もありましたが、これは3年程前に閉店してしまったようです。

旧高野家住宅 甘草屋敷

豪壮な屋敷

雲峰寺から甲府盆地に下っていき、中央線塩山駅の裏にあるのが甘草屋敷と呼ばれる旧高野家住宅です。
旧高野家住宅は、江戸時代後期の民家と屋敷構えをそのまま歴史公園として活用しています。高野家は江戸時代、薬用植物の甘草を栽培して幕府に納めていたことから「甘草屋敷」と呼ばれていました。

3階建ての建物
屋敷の周りは干し柿だらけ
甘草は甘味料や調味用として繁用される一方、薬用としても広く用いられ、重要な生薬となっています。現在では国産品は殆どなく、中国やロシア、アフガニスタンなどからの輸入に頼っています。半分以上は甘味料として利用され、三分の一程度が薬用として使われているようです。
現在でも屋敷の前の畑で少しだけ栽培されているようですが、これは観光用のようで、11月のこの時期では枯れてしまっていました。
重要文化財の指定を受けた屋敷は豪壮な作りで、以前は萱葺きだったようですが現在では銅板で葺き替えられていました。
三層の建物を支える柱は棟まで支える長いものですが、柱の数は少ないようで、よくこれだけの家を支えきれるものだと思うほどです。しかし当然の事ですが、柱や梁の太さは建物の大きさに見合った超極太サイズになっています。

裏にあった建物。日当たりを考えた倉庫?
屋敷の近くにあった信玄公の坐像。
高野家も江戸時代の甘草栽培以後は養蚕になったようで、建物も養蚕に合わせた作りになっています。

古民家や簾の如き吊し柿

ここを訪れた11月半ばはちょうど塩山の特産物「枯露柿」の収穫時期になり、屋敷の周りは半端ない数の干し柿がカーテン状態にぶら下がっていました。
この干し柿は土産として販売するのでしょうか?

天目山 栖雲寺

甘草屋敷からは南に下り、国道20号線に出たところで東に進み、甲斐大和駅の先で20号線から分かれて県道218号線に入ります。この道をずっと進むと大菩薩嶺への登り口に到着し、そこから先は先ほど訪れた雲峰寺へ下っていく201号線になります。
この途中に紅葉を期待した竜門峡がありましたが、紅葉は終わってしまったのか?そのまま枯れてしまったのか?
残念ながら期待した紅葉には巡り会えませんでした。
途中、やっと見つけた蕎麦屋で昼食を済ませ、そこから少し先に進むとようやく栖雲寺到着です。
信玄以前の武田氏の歴史を追ってみます。
武田信満(武田家第13代当主。信玄より6代前)が天目山で自害し武田家は断絶の憂き目にあいます。しかし、その後大混乱に陥った甲斐国を救ったのもやはり武田でした。室町幕府は、出家して世捨て人となっていた信満の息子を還俗させ甲斐守護に据えます。その後の武田の繁栄は広く知られるところです。

武田信満の墓所

栖雲寺は信満の菩提寺となっている寺で、寺の裏手の斜面にある巨大な自然石の組まれた庭園は禅修行の庭として知られたところで、いくつかの巨岩には線刻の磨崖仏が彫られています。人の手が加えられた庭ではないのですが、近くにはこのようなところは無いので、何故ここだけに巨岩が集まっているのか不思議です。
この庭にあるモミジは丁度よく色付いていて、ようやく秋らしい紅葉に巡り会うことが出来ました。

巨岩の庭
なぜここにだけ巨岩があるのか?
巨岩の庭を一周してきましたが、まるで登山のようです。息も絶え絶えになりながらようやく戻って来ました。

武田勝頼が織田、徳川連合軍との戦いに負け、最後に目指したのはこの地(天目山)だったと言われています。信満後の武田氏が再興して信玄の時代に大きな繁栄を迎えたように、再びの繁栄を後の世に願っての事だったのでしょう。
しかし、勝頼はここまで辿り着くことは出来ず、現在の景徳院で自害して、武田氏は滅亡してしまいました。

余談ですが、栖雲寺はそれまで団子のようにして食べていた蕎麦を切って食べる、所謂ソバ切り発祥の地と云われています。

天童山 景徳院

武田勝頼の菩提寺
山門は創建時のもので、桜が咲けば絵になりそうです。

栖雲寺をあとにし、来た道を下ります。
ほぼ下りきった所にあるのが武田勝頼の菩提寺となっている景徳院です。
景徳院は武田勝頼父子および家臣の慰霊のため、徳川家康の命により創建された寺で、
境内には勝頼、北条婦人が自刃した生害石や墓が残っています。

勝頼ら家族3人の墓所

勝頼は追い詰められた際、跡継ぎの武田信勝が元服を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった小桜韋威鎧(国宝。武田家代々の家督の証とされ大切に保管されてきた)を着せ、そのあと父子で自刃したという話も残っています。

家康が勝頼の菩提を弔う寺を建立したのも、主を失った武田家臣団の懐柔策であったのでしょう。事実、江戸時代になると、江戸城西側一帯の守りは武田の家臣団によって行われています。

勝頼の生害石や散る紅葉

石段を登っていくと建っている立派な山門はこれまで幾度となく火災に遭っても類焼を免れてきた唯一の建物となっている門で、これは県の指定文化財にもなっている貴重なものです。山門とならんで立つ桜の木は花の時期になったら山門といい絵になりそうでした。

勝頼が自害したという生害石
こちらは北条婦人の生害石
没頭地蔵尊と呼ばれる首のない地蔵。寺伝によれば首を落とされたあとの遺体を埋葬した場所といわれています。

このように、景徳院に残るものは、武田氏滅亡に係わる悲惨なものばかりですが、戦国の時代、一族が絶えるという事はそのようなものだったのでしょう。
武田勝頼辞世の句

朧なる月のほのかに雲かすみ 晴て行衛ゆくえの西の山の端

勝頼の墓に合掌して、さて清水に帰ります。

本栖湖からは、今日見てきた武田氏の悲惨な歴史を忘れさせるような綺麗な富士山が紅葉の向こうにそびえていました。

本栖湖からの富士山

 

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