伊豆88遍路2年4ヶ月ぶりの再開

青色ラインは済み、赤色はこれから

平成30年の3月にスタートした仲間4人の伊豆88遍路歩き旅も、最初は順調に進んだものの、翌年正月、河津に届いたところであの「新型コロナウィルス」騒ぎが始まり、遍路旅も一時中断を余儀なくされて、はや2年。
時の経つのは早いもので、スタートしたのはまだ平成の時代だったのに今は令和の時代になり4年目です。
コロナの新規感染者宗はこの遍路旅を中断した頃とは比べものにならないくらい大勢の感染者が出ていますが、今年に入った頃から世の中もウィズコロナに変わりつつあり、自分たちの遍路旅もウィズコロナの中で再開することにしました。

それにそろそろ再開しないことには、このまま歳をとって歩く体力も無くなってしまいそうです。
ある程度は感染覚悟も考えに入れ、2022年(令和4年)5月29日、今回は5人で河津からスタートしました
清水を6時に出発、伊豆に行くのなら高速でなくてもそれ程の時間差は出ないので一般道(一部伊豆縦貫道)を使って、河津の無料駐車場へ駐車です。
8:00ジャスト、河津をスタート。
スタートしてすぐの所に札所があるのをうっかりしていました。河津町では今日は町内の一斉清掃の日のようであちこちで集団での清掃作業が行われていました。

36番 乗安寺

 

なんとも特徴の無いお寺です。特徴のないのが特徴?

こちらのお寺は何とも特徴の無いお寺です。住職は居るのだろうか?と不安になる程の静けさです。納経所の案内があったのでそちらに行ってみると、住職は不在のようで、御朱印はそこに置いてあった札を一枚持って行くように書かれていました。御朱印代300円はそこに置かれていた紙の箱に入れておけばいいようです。そうこうしているうちに住職が見えました。
どうやら、地区の清掃作業で留守にしていたようです。
お寺の事を書こうにも、書くべき事が殆ど見つからないほどの特徴の無いお寺でした。
何か情報を、と探してみたところ、以下の記事を見つけました。

「慶長年間(1596年~1614年)日遠上人によって建立されました。また、法の正邪を論じて家康の怒りにふれた上人を、側室お万の方が自分の駕篭に乗せてこの地へ逃したという葵紋つきの女駕篭も残っています。」

との事です。これ以上の情報を探してみましたが、残念ながらどこを探してもこれ以外は見つかりませんでした。
今日は先も長いので、先を急ぎます。
国道を離れてかなり狭い山道に入っていきます。歩いているから道幅はどうって事ありませんが、車で来たら車のすれ違いには苦労することでしょう。

風も無く穏やかな海。でも暑い!!

37番 地福院

 

坂を登ってきてようやく辿り着いた地福院

少し開けた集落に出ると右手に地福院がありました。
かつては玉田山金生院という真言宗の寺院でしたが、1600年(慶長5)年に曹洞宗の寺院として再興されました。 縄地金山が栄えた際に、近隣にあった9つの寺院のうちの一ヶ寺で、金山衰退後にのこり8つの寺院は移転や廃寺しましたが、地福院だけはこの地に残りました。

入り口に立つ六地蔵

本堂前の石段で一休みしていたら、こちらの若い奥さんなのでしょうか、お菓子とお茶を頂きました。こんなこと遍路旅を始めてから初めての事。

お菓子とお茶を頂きました
まだまだ余裕の表情です

でも、考えてみれば四国88カ所遍路では「お接待」が一般的に行われているようですから、伊豆遍路でもあっても不思議なことではないですね。
逆に、これまで一度もこんな事無かったのが不思議?
お菓子につられて随分と長居をしてしまいました。

38番  禅福寺

 

歩道の無い道が怖い

暫くぶりに国道に出て、騒々しい道を行きます。歩道も無いので車に気をつけないとヤバイ。でもじきに再び脇道に逸れ坂道を登る事に。
境内に上がっていくとお経の声が!
ヤバイ、法事?葬式?

禅福寺本道。立派な建物です。

でも、庫裏の方で御朱印をお願いしたら頂く事が出来ました。
ここで再び、先ほどの地福院でお茶を出してくれた奥さんに会いました。どうやら何かの手伝いでこちらのお寺に来ていたようです。

地福院でお菓子を出してくれた奥さん。こんどはこちらでお菓子を出して頂きました。何方のお寺の奥さんなのでしょう?
善福寺をあとにして、須崎の先端を目指します。

ここでまたまたお茶とお菓子を頂き(それもさっきより量が多い)、甘い物が体に入ったためなのか、少し力も出てきたようです。

ここで仕入れた情報では、次の観音寺へ行く道は須崎の西海岸を走っている県道116号を行くしか無いといいます。しかし、それは車で行く場合の話で歩き遍路では山道を越えていく道がある事は事前に確認してありました。歩きの伊豆遍路についてはこちらの方が情報は持っているようです。
先を急がねば!

お菓子のお礼をいって、寺を出て少し歩くと国道です。
この辺りからの海岸の砂は真っ白。海も綺麗で海岸は若い人達で賑やかです。
この海岸で遊ぶ人達を見ると、既にコロナは終息したかのように感じてしまいます。

須崎の入り口までは綺麗な海岸が続きます。と同時に、下田に近づくにつれ、車の往来も賑やかになってきました。

向こうに見えるのが須崎かな?
国道歩きはつらい

時間も11時半を過ぎているのでそろそろ昼飯の時間。今日は食事処には苦労しないはずでしたが、どうなのでしょう。

街道沿いには確かに飲食店は多いのですが、殆どラーメン。
白浜神社近くにあった、空いていそうなラーメン屋さんに入りました。
でも、この店を選んだのは失敗!
空いている理由にも納得!
オヤジは無愛想で、ラーメンも不味いとは言わないまでも、美味しくない。
それでもいつも通りにビールは飲んでしまいました。
食べ終わりそうそうに店を出て次の札所、39番観音寺を目指します。

????だったラーメン。
白浜神社

32年ぶりの下田

海も空も浜も綺麗です
港の砂も白い

下田は何年ぶりになるのだろう?と記憶を遡ってみるとどうやら友人とバイクで伊豆一周した時に来たのが最後のようです。あれは32年ほど昔の事です。
40代、50代、60代と一気に過ぎ去っていった時間の流れに愕然としてしまいます。
これから先の事を考えても人の一生の短さを改めて実感してしまいます。

須崎の東の付け根にある外浦海岸とそこに続く道は国道から見えていますがその道路への分岐点は?
事前に調べたルートは私有地の一部になってしまっているようでした。
まさか個人の私有地を抜けていく訳にもいかないので、ずっと先の交差点まで行って、ようやく須崎の半島の東側を行く道路に入る事が出来ました。
しかし、この道路もずっと海岸を進める訳では無く、すぐに方向を西に変え、山を登っていきます。結局、須崎を貫いている山を東から西に横断する事になってしまいました。

外浦海岸

西側を行く県道116号に較べれば確かに距離は短くて済むようですが、どちらの方が楽だったのかは微妙な感じです。

でも行きも帰りも同じ道をピストンでは体力より気持ちが負けそう。

県道116にぶつかり、バスも通る県道を南に向かいます。殆ど下り坂なので楽ですが、と言う事は帰りはスタート時から登坂が続く事になります。
須崎の先端にある須崎港まで来たところで、少しだけ細い道を上に行くととようやく目的地であった39番札所の観音寺が見えました。しかし何とも分かり難いところにあるお寺です。

ようやく観音寺に到着

39番 観音寺

 

御朱印をお願いしている間に本堂に上がり仏像を拝観させて頂きました。本尊の横にあった2体の仏像(多分不動明王と、もう一体は広目天?)は説明によれば平安時代の作となっていましたが、これはどうなんでしょう?

観音寺という寺名は全国にあるお寺の中では一番多いらしく、そう言われて思い返してみたら3つほどは思い浮かびました。
成程、確かに多い!

何点かの仏教画が飾られていました。
もう来る事も無いのでしょう。

さて、ここから今日最後の札所となる玉泉寺までは約3キロの道程です。
同行の一人は大分バテてて来ているようで、バスで行こう、とそんな事も言っていました。
思い返してみれば、この伊豆88遍路はお寺そのものには何の魅力もありません。
では何のために遍路を続けているのか?
この答えはハッキリしています。
それは歩いて廻れるから。

四国遍路は静岡からは遠く、とても歩いての遍路なんて出来ません。でも県内にある伊豆の88ヶ所なら頑張れば歩き遍路が出来そうだったからなのです。
ここまで頑張って来たのに、ここでこれまでの苦労をフイにする事は無いでしょう。
ここは何とか歩いて次の玉泉寺に向かう事になりました。
ヨカッタ!
とはいったものの、最初の1キロ程は、急坂ではありませんが、ずっと上り坂が続きます。
この1キロをクリヤーすればもう上り坂はありません。
3キロなんて、いつも歩いている散歩ウォーキングの片道分の距離より短いのですからこれくらい楽なもの、と思いますが、やはり1日荷物を背負って歩く街道ウォークと何も持たずに歩く日頃のウォーキングとの差は大きいです。

40番 玉泉寺

ようやく玉泉寺に到着

重い足を引き摺りながら歩く事45分。ようやく玉泉寺に到着です。伊豆遍路をスタートしてから一番メジャーなお寺かもしれません。

嘉永7年(1854年)3月、日米和親条約の締結、同年5月の付録13ヶ条の締結により、当寺は米国黒船乗員の休息所・埋葬所に指定されました。その2年後、安政3年(1856年)タウンゼンド・ハリス総領事、通訳官ヒュースケンが下田に着任し、同年8月玉泉寺を日本最初の米国総領事館として開設しました。境内に星条旗が掲揚され、以来2年10カ月、玉泉寺は幕末開国史の中心舞台となりました。又、それ以前は日露和親条約の交渉の場となり、プチャーチン提督やディアナ号高官の滞在等、開国の歴史を彩る貴重な寺歴があります。<玉泉寺HPより>
アメリカ総領事館の碑
曹洞宗の寺によくある「不許葷酒入山門」
玉泉寺本堂

ここにはハリスが滞在時に使っていたストーブの煙突穴が今でも残されているというので探してみました。本堂の外壁には「ストーブの煙突を出した石」と書かれた説明板もありました。石?
石の意味が分からなかったのですが、外壁の木に煙突が触れると火災の危険もあるので、石をはめ込んでそれに開けられた穴を煙突が通っていたという、何とも当たり前な話でした。

暖炉の煙突が抜けていたという穴の跡。

自分の頭の中では下田の了仙寺と玉泉寺がごちゃ混ぜになってしまっていたようです。ジャスミンが満開、という情報を教えて貰っていたのにジャスミンなんて何処にもありません。
このジャスミンは了仙寺の方でした。
江戸時代、アメリカとの日米和親条約の交渉、締結(1854)が行われたのが了仙寺で、その後ハリスが来てアメリカの総領事館が置かれたのが玉泉寺でした(1856)。玉泉寺にはアメリカやロシアの船員の墓地もあります。

ようやく今日の予定は終了。駅まで歩く元気は無いので少し待ち時間はありますが、バスを待って下田駅に向かう事にしました。

バス停は柿崎神社前なのだけど、三島神社
今にも倒れそうな吉田松陰像

バスを待つ間にバス停の前にあった三島神社の境内に入ってみました。経大の一角にペリー艦隊に乗り込んで異国へ渡ろうと密航を企てた吉田松陰の大きな像が建っていました。
密航に失敗した吉田松陰は捕らえられ、その後江戸に送られています。
境内に立つ吉田松陰の像は昭和17年に建てられたという古いもので、かなり傷みも酷くなってきていました。地震でも来たら倒れそうな感じです。

伊豆急下田駅

バスで下田駅まで行き、伊豆急で車を置いてきた河津まで戻ります。
2年4ヶ月ぶりに復活した伊豆88遍路もこれでようやく40寺/88寺。まだ半分も来ていません。遍路のコースもこれからは益々大変になりそうで、これまでのようには行きそうもありません。
それだけに満願寺に辿り着いた暁にはさぞや大きな達成感を感じる事が出来るでしょう。
それを楽しみにこれからも頑張らねば!!

 

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