5月末にスタートした「北国街道てくてく旅」でしたが、第2回目の計画を起てる事がなかなか出来ない状態でした。と言うのも、同時進行で進んでいる、もう一つの歩き旅「伊豆88遍路」の方が天候不順で進めずにいるので、まずはこちらを1回進めてからでないと計画も出来ませんでした。
しかし、今年の梅雨はいかにも梅雨といった雨天続きで、これでは何時になるのか分かりません。そこでこの際、雨覚悟で行く事にしました。
同時にこちらの北国街道も雨覚悟で進める事になり、ようやく2回目の北国街道てくてく旅が実現しました。
尚、送られてきた「一秀翁」の句も掲載しました。
晴れ女が抜けてしまった
出発当日、長野の天気予報をみると、やはり二日間とも晴れ間を期待するのは無理なようです。でもこの時期、梅雨の合間の晴れでは暑さに参ってしまいそうです。曇りがベスト、少しくらいの雨ならば、晴れ間が出るより良いでしょう。
これまでずっと一緒に旧街道を歩いてきた紅一点のTさんが今回から抜けてしまい、天照さんが抜けてしまった事から、これからは雨に降られる事も多くなるのかもしれません。
彼女は台風の中でも雨を降らせなかった程の晴れ女でしたから、その威力は絶大なものでした。
北国街道の宿場
北国街道にも当然、宿場はあります。しかし、静岡からは遠くの地でもある事から、これまでの街道のように現在の地名と昔の宿場の位置関係がよく分かりません。
昔の宿場は「追分」ー「小諸」ー「田中・海野」ー「上田」ー「坂木」ー「上戸倉・下戸倉」ー「屋代」ー「篠ノ井追分」ー「丹波島」ー「善光寺」ー「新町」ー「牟礼」ー「古間・柏原」ー「野尻」ー「関川・上原」ー「田切・二俣」ー「関山」ー「松崎・二本木」ー「荒井」ー「高田」と、中山道の追分宿と北陸街道の高田までの間に18の宿場があります。
二つの地名が書かれている宿場は二つで一つの宿場の業務を行っていた合宿です。
このうち、2回目となる今回は坂木宿から善光寺宿までの5宿を進める予定で出掛けました。
最終ゴールの善光寺で西国巡礼のお礼参りをしてくる予定なので、初日にある程度距離を稼いでおきたいところです。
そんなわけで、清水を4:30am に出発しました。
春に中部横断道路の清水ー富沢間が開通しましたから、これを使えばかなり早くなります。
と、思ったら、なんと夜間工事中でこの区間は通行止めになっていました。仕方なし、下部まではこれまでの一般道を行くしかありませんでした。
篠ノ井のホテル到着
下部で中部横断道路に乗ればあとはこの日泊まるホテルのある篠ノ井まではずっと高速道路です。
思えば便利になったものです。僅か3時間程で篠ノ井のホテルに到着しました。事前に2日間ホテルの駐車場を使わせて貰えるようにお願いしてありました。
篠ノ井駅からしなの鉄道で前回のゴール地点となった「テクノさかき駅」まで行き、8:32amようやくスタートです。
篠ノ井目指していざ、スタート!
地図をみても今日一日これといったものは街道沿いには無さそうです。それに篠ノ井まではおおよそ21Kmありますからそんなにノンビリ出来そうもありません。
坂木宿
坂木宿には「坂木宿ふるさと歴史館」があります。昭和4年築の木造三階建ての建物を利用した施設で、中ではこの地を治めた「村上氏」の歴史を発祥から詳しく学ぶ事が出来るようです。
また、長屋門はここに坂木宿本陣があった当時のもので町指定の有形文化財となっています。
村上義清といえば、甲斐のの武田信玄を二度も破った事で知られる武将で、川中島の合戦では武田勢と再度対戦して信玄の弟「武田信繁」を討ち取った事でも知られています。
戸倉宿
戸倉宿は上戸倉と下戸倉に別れていて、二つでひとつの戸倉宿を形成していました。坂木宿をでて千曲川の畔に出ると小さな公園(苅谷原ミニパーク)があり、かつてここは「笄(こうがい)の渡し」と呼ばれていました。
1553年(天文22年)村上義清の居城である葛尾城が武田信玄により攻略され、義清の奥方は義清と離れて村上氏の出城「荒砥」城へと逃げのびます、途中、この場所の渡し場に差し掛かった奥方は渡し場の船頭に舟を出すように願い出たところ船頭は心良く舟を出して奥方は無事に対岸に渡り荒砥城に逃げのびました。
そのお礼に奥方は笄(かんざしの一種)を船頭に差し出したと云います。
戸倉・上山田温泉
左手、千曲川の対岸の山に大きな「戸倉・上山田温泉」の看板が掲げられていました。
戸倉の交差点で街道を離れて、西方向へ曲がり千曲川を渡れば戸倉、上山田温泉郷です。
戸倉温泉は1893年(明治26年)、上山田温泉が1903年(明治36年)に開湯されました。
善光寺参拝者に評判で善光寺からの帰路には参拝者のほとんどが戸倉、上山田温泉に宿泊するほどで、1912年(明治45年)には戸倉駅が開業され温泉郷と戸倉宿は大いに賑わったといいます。
坂井酒蔵
戸倉駅駅入口交差点手前の萱葺き屋根の坂井酒造は創業が1596年(慶長元年)で宿場時代に下の酒屋と呼ばれていました、清酒「雲山」の酒造元です。
現在は 蕎麦料理處『萱』として営業しています。
矢代宿
時間も11時を過ぎました。しかし廻りはとても食事を摂れる店がありそうも無い雰囲気です。
少し先には千曲駅があるようなので、千曲市の駅ならば少しくらいは店もあるのでは?と期待しましたが、何もありません。
その先で国道に出て、ようやく昼飯にありつけました。
腹も膨れて暫く行くと立派な神社があります。「須須岐水神社」というようです。
この頃から雨が降り出し、雨具を着けての歩きになりました。
矢代の渡し場
「信濃矢代宿脇本陣跡」を過ぎ、矢代宿を出たところで千曲川に差し掛かります。かつてここには「矢代の渡し場」があり、対岸へ渡っていました。
街道も是に習って、南側の渡し場まで行き、そこから篠ノ井橋を迂回し対岸の北側の渡し場まで行きます。雨ばかりでなく土手道は風もかなり強くなっていました。
信玄と謙信が戦った川中島の古戦場はここより数キロ下流になります。
篠ノ井追分宿
篠ノ井宿は幕府が定めた正規の宿駅ではなく追分(中山道洗馬宿からきた北国西街道と合流)によって栄えた間の宿でした。それに加え、矢代の渡しもあり、大いに栄えたといいます。
ホテルには1:00pm からチェックイン出来るようなので、取りあえずチェックインして、少し休憩してから篠ノ井線で「姨捨」まで行ってみる事になりました。折角ここまで来て、空いた時間をホテルの部屋で潰す事も無いでしょう。
姨捨
姨捨までの篠ノ井線は傾斜地の為、鉄道はスイッチバック式で進んでいきます。スイッチバックは始めての経験でした。
姨捨駅は篠ノ井駅から2駅目。その名の通り姨捨伝説で知られる地です。しかし現在は棚田風景で知られるようになり、そこで生まれる棚田米も人気を呼んでいます。
棚田を見るのならもう少し早い田植えの時期なのでしょう。苗が伸びてきた今ではただ緑の段々畑に見えるだけでした。
自分にとっては昨年の秋以来の姨捨です。
雨の中、傘を差して展望できる所まで歩いて見ました。下には雨に煙る千曲の町が広がっており、その北側には篠ノ井から長野市に繋がる平野が広がっていました。
一日、お疲れ様でした
40分後の電車に乗り篠ノ井に戻ります。
時間も丁度良い時間なので、ホテルに戻る前に近くの居酒屋で今日の反省会を兼ねての夕食となりました。
さて、明日の天気はどうなのでしょう。
晴れもなく、雨もなく、曇りが一番なのですが......