二日目、今日最初の訪問地は平泉の中尊寺。ここも49年ぶりになります。花巻温泉から平泉までは南に下り50分程で中尊寺駐車場に到着しました。
平泉は朝からかなり気温も上がっている様子で、今日も一日暑さには苦労しそうです。
蝉時雨の坂道を若い人達に混じり登っていきますが、朝いちの坂道は老体に堪えます。
49年前もこんな坂道を登ったんだろうか? 殆ど記憶は飛んでしまっていますが、金色堂の見事な金の輝きと建物内部の精緻な細工だけは記憶に残っていました。
今年は昭和の大規模金色堂改修工事から満50年の記念すべき年のようです。
自分が49年ぶりという事は、この時は改修を終えたばかりの眩いばかりに輝く金色堂を見た事になります。どうりで綺麗に見えた筈だと納得してしまいました。
意外なのは若い人達が多い事。お盆休みという事もあるのでしょうが、歴史や寺に関心を持つ若い人が増えてきているのでしょうか。
寺伝によれば中尊寺は円仁の開山とされていますが、実質的な開基は奥州藤原氏の初代、藤原清衡です。
清衡、基衡、秀衡と続く 奥州藤原氏三代ゆかりの寺としてよく知られており、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を所蔵しています。
中尊寺はただ奥州藤原氏ゆかりの寺と言うだけで無く、頼朝に追われた義経に関わる史跡、奥の細道でここを訪れた芭蕉、芭蕉がここで詠んだ「さみだれの降り残してや光堂」の句、そして最期は頼朝に討たれて消えていった藤原氏、とその時代時代の歴史の中で大きな足跡を残しています。
本堂内部には伝教大師が点灯して以来延暦寺で点り続けている法灯から分火された「不滅の法灯」も灯っています。
本堂の参詣を済ませ金色堂に向かいますが、境内はやたらと広いために、金色堂までもかなり歩かされました。
そうは言ってもやはりこの金色堂は凄いものです。マルコポーロがローマに伝えた、金で屋根を葺いた家というのはこの金色堂の事だったのでしょうか。
時代も合います。
中尊寺は全山に見るべきものがあり、チョット立ち寄った程度では何も分からずに終わってしまいそうです。半日ほど掛けてゆっくり廻ったら今回は見えなかった物も見えて来るのかも知れません。
またいつか中尊寺です。
今日は松島近くまで進まなくてはならないので、先を急ぎます。
高館は北上川に面した丘陵で、判官館(はんがんだて、とか、ほうがんだて)とも呼ばれています。義経の正式な名は源九郎判官義経であった事で、位の判官から、この様に呼ばれていたようです。
兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた義経は、藤原氏三代秀衡公の庇護のもと、この高館に住んでいました。
しかし、文治5年(1189)4月30日、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡公の子・泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害しました。泰衡自身もそれから半年も経たないうちに頼朝に討ち取られ、ここに奥州藤原氏も終焉しました。
高舘の丘の上に建つ義経堂は義経を偲んで仙台藩主第四代伊達綱村公が建てられたもので、現在は毛越寺の飛び地となっています。
ここからの眺望は平泉一と言われ、芭蕉があの有名な「夏草や兵どもが夢の跡」の句を詠んだのもこの場所といわれています。
眼下には北上川が流れ、少し上流で弁慶の立ち往生で知られる衣川が合流し、目の前に広がる景色は、かつてこの地で「前九年の役」「後三年の役」「衣川の合戦」など幾つもの大きな戦があり、そこで大勢の兵どもが流していった血など想像も出来ない程、今は静かで長閑です。
まさに ”兵どもが夢の跡” 芭蕉の気持ちも少し分かったような気になる、そんな高舘からの景色でした。
平泉最期の訪問地は「毛越寺」。これで「もうつうじ」と読みます。
毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡から三代秀衡の時代に多くの伽藍が造営されました。
往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺を凌ぐほどの規模と華麗さであったといわれています。
奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失しましたが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、平成元年には平安様式の新本堂が建立されました。
境内に芭蕉の「夏草や〜」の句を新渡戸稲造が英訳した碑がありました。
The summer grass
It is all that’s left
of ancient warriors dreams
毛越寺の庭園の中心は、「大泉が池」で、この池は東西約180メートル、南北約90メートルの広さを持ち、作られた当時の姿を伝えています。
池のほぼ中央部に東西約70メートル、南北約30メートルの中島があり、池の周辺や中島にはすべて玉石が敷かれています。
昔は南大門前から中島南まで17間の反橋、金堂側から中島北まで10間の斜橋がかかっていたと古記録に残されています。
橋の四隅に据えられた橋挟石や南の反橋の橋杭は残存していて、これは橋の遺構としては、わが国最古のものとされています。
平泉から東に向かい三陸海岸に出て、陸前高田市にやって来ました。陸前高田は東日本大震災で壊滅的な津波被害を受けた所で、震災翌日の報道ヘリからの映像が強烈な記憶として残っています。その時に空から見た陸前高田には何もありませんでした。
陸前高田にはあの一本だけ生き残った「奇跡の一本松」があります。これを一度見ておこうと今日の宿のある東松島へ向かう途中で立ち寄ってみました。
地形が大きく変わってしまっているので、ナビの案内は殆ど役に立ちません。何もない土地に広い道路が通っていて、あちこちで大きな復興工事が行われていました。
「奇跡の一本松」を見る人達の為の駐車場まで行って、これまたビックリ。広い駐車場がほぼ満車状態でした。
松を見る為にはここからかなりの距離を歩いて行かなくてはなりません。真夏の炎天下を歩く事10分程で「奇跡の一本松」到着。
津波を被って周りにあった松林は姿を消してしまいましたが、この松だけは奇跡的に流される事なく立っていたので、誰が名付けたのか「奇跡の一本松」と呼ばれるようになりました。
しかし震災から半年ほど経った頃、塩害によりとうとう枯れてしまいました。
これを惜しんだ市民によりこれを復興のシンボルにしようと保存処理を行って再びこの地に立ったのがこの「奇跡の一本松」でした。
当時、一億五千万円もの経費が必要という事で残す事への賛否両論がありましたが、実際これだけの人達が見に来て、駐車場横のお土産屋さんで売られている「奇跡の一本松」と名付けられたお土産を買っていって貰えるのなら、元の経費以上の経済効果はあるのだろうと思います。
斯くいう私も日本酒「奇跡の一本松」を買ってきました。
今日の観光はこれで終了。東松島にあるホテルに向かいます。と言ってもホテルまではここから100Km以上もあります。
途中寄った道の駅は震災前は気仙沼線の「大谷海岸駅」のあった所でこの部分にだけは線路が残っていました。以前は線路と海岸との間には松林があったようですが、今はその面影すらありませんでした。
午後5時50分、やっとホテルに到着しました。このホテル、チョット変わっていて小さな平屋の建物がやたらと沢山有ります。一棟でもかなりの部屋数がありますから全体では一体何部屋あるのか?
同じ系列のホテルが福島から石巻に掛けて五カ所ほどにあるようです。自分たちが泊まった東松島の「バリユー・ザ・ホテル東松島矢本」だけでも部屋数は400部屋ほどあり、ランドリーもナント56台。驚きの設備です。
どうやらこの系列ホテルは、震災復興工事に関わる人達が泊まる為に造られたホテルのようです。しかし、お盆休みのこの時期には皆さん帰省しているのでガラ空き状態でした。
夕食は近くにあった日本食店で済ませました。居酒屋に行かないと結構安上がりで済みます。