足掛け6年 そろそろ満願しなくては!
坂東観音巡礼も運慶展の折、茨城県の2寺に寄った時を初回とすれば既に足掛け6年になってしまいました。
再スタートした翌年、2020年にコロナ騒ぎが始まってしまった事で巡礼旅も止まってしまい時間ばかりが過ぎてしまって全員が年齢も+5歳。
このままでは高齢化するばかりなのでそろそろ満貫させなくては、と約2年の休止ののち再開したのは2021年秋でした。
コロナ感染には十分注意しながらその後も回を重ね、今回の8回目で4寺を回れば、残りが浅草寺と弘明寺の2寺になります。
スタートしてかなり強い雨に出くわしましたが、今だけの雨で済むはずです。
一ヶ月ぶりの19番札所 天開山 大谷寺
今回も、ここ数年、何回も通っている圏央道から東北自動車道と乗り継ぎ、鹿沼インターで高速道路を降りました。
出発から丁度4時間後の8時に先月来たばかりの大谷寺に到着。
一月前に来た時は定休日の木曜日という事で参詣叶わず、今回の再訪となりました。
お寺にも定休日があるなんて、これも時代なのでしょう。
30分ほど待たなくてはならず、巨大な平和観音との一月ぶりの再会で時間を潰しました。
5分ほど早く開門して頂き、ようやく境内に入る事ができました。
大谷寺は十数年前に一度来ているので、先月と合わせて3回目になります。
ここの目玉は日本最古の石仏と言われる「大谷観音」です。
拝観料を払って石に嵌まり込んだような観音堂に入ると、絶妙な照明の中に観音像が浮かび上がっていました。
この観音像は、大谷石の岩壁に彫られたレリーフに朱を重ね、その上に粘土で細かな細工を加え、更に漆を塗って、金箔が押され、作られた当初は金色に輝いていたようです。
観音堂の内部には岩壁が露出していて、そこには、千手観音像、伝釈迦三尊像、伝薬師三尊像、伝阿弥陀三尊像の4組10体の石心塑像が4区に分かれて彫られています。
このうちの千手観音像が、大谷寺の本尊となっています。
最新の研究では、バ―ミヤン石仏との共通点が見られることから、実際はアフガニスタンの僧侶が彫刻したものと考えられているようです。
照明に浮かぶ大谷観音はなんとも言えない荘厳な雰囲気を醸し出しています。
この太谷観音の持つ雰囲気は坂東霊場を回ってきても、これまでには感じる事の無かったもので、思わず言葉も出なくなり沈黙です。
本尊の千手観音の先にも幾つもの石像が彫られていて、さほど広くもない堂内ですがそこにある石像群は見応えがあります。
本堂横にある宝物館には、約11,000年前の縄文時代のものという人骨が展示されていました。
これでようやく大谷寺の御朱印も頂けました。
20番札所 独鈷山 西明寺
大谷寺を出て、次の西明寺に向かいます。
今日はここからずっと一般道を行くしかありません。
それでも、1時間半足らずで西明寺に到着しました。
西明寺は益子焼で知られる益子町にあり、寺までの途中には益子焼の看板が随分と目に付きました。時間があれば少し覗いていきたいところですが、今日は先を急ぎます。
駐車場に着いたものの、本堂のある境内まではかなり段数のある石段を登らなければなりません。
今日初めての重労働にヒーヒーして階段を登り切ると目の前には茅葺き屋根の立派な楼門が控えていました。この楼門と本堂厨子、三重塔は国の重要文化財にも指定されている貴重なものです。
山門を抜けると立派な本堂の前に出ます。振り返ると山門の横にはこれまた立派な三重塔が建っていました。
益子を統治していた益子という氏は「土佐日記」で知られる紀貫之の後代、紀一族が益子に移り住み、西明寺の地「権現平」に紀貫之を祀ったことから始まったと伝わります。
その紀貫之夫妻の像は現在、西明寺本堂の奥に安置されているようです。
西明寺は真言宗の寺と言う事で、本堂内は内陣外陣が細かな格子でしっかりと分けられたいかにも密教寺院の造りとなっています。
内陣には300円で入れるようでしたが、今回はパス。
境内に建つ茅葺きの焔魔堂の中に鎮座する閻魔大王は笑っている珍しい姿で、笑いエンマともいわれています。閻魔以外にも、善童子、悪童子、奪衣婆、地蔵尊の五体の仏像が安置されています。
帰りは石段は辞めてスロープを下りました。途中には坂東33霊場それぞれの石造りの観音像が幾つかありましたから、境内を探せば33体の観音像が揃っているのでしょう。
受付まで戻ったら、そこは食事処にもなっているようなので、少し早いですがここで昼食を済ます事にしました。味どうこう言っても、コンビニ弁当よりは良いでしょう。
味は? 悪くは無いのですが、塩味が効きすぎている物もあり、これに当たった人は血圧が少しだけ上がったのかも。
食事を済ませたところで、次の23番札所、正福寺に向かいます。予定通りの道を通る事が出来ればそれ程の時間は掛からないはず。地図で見ると山の中を通っているようなので、前回のあの林道の酷道が頭に浮かんできてしまいましたが、今回の道は広く何の問題も無く最短距離で正福寺まで行く事が出来ました。正福寺までは30Kmも無いので30分ほどで到着出来ました。
大六天の森
知っていたら是非寄って来たかったです。
因みに、時元の墓は彼の屋敷跡に立てられた沼津の大泉寺にあり、伝説によれば「大六天の森」で切り落とされた彼の首は一夜のうちに駿河まで飛んでいき、大泉寺の門前にあった松の木に引っかかったと伝えられています。
蘇我入鹿、平将門、そしてこの阿野全成時元と、昔は人の首が結構飛んでいたようです。
四六の蝦蟇は鳴りを潜めり
23番札所 佐白山 正福寺
正福寺は一時期、観世音寺となっていましたが、平成24年に元々の寺号である正福寺に改められています。
寺の参道入り口前には広い駐車場がありますが、これは公営笠間稲荷駐車場で、近くにある笠間稲荷神社の参拝客の為の駐車場のようです。
また、正福寺裏にあるツツジ公園に来る人達もこの駐車場を利用するようで、ツツジが満開の時の人出が想像出来ます。
駐車場から境内までは少し坂道を登らなくてはなりませんが参道は石段ではなく、傾斜もかなり緩く作られているのでそれ程の苦労もなく境内まで上がる事ができました。
お寺は何の特徴も無い小さな建物ですが、正福寺の裏は3万5千株のツツジ公園になっています。しかし、時期外れのこの時期ではなにもありません。
境内にある面白いお地蔵さんを見つけました。
「お迎え地蔵尊」と呼ばれるこのお地蔵さんは東日本大震災の振動で、倒れずに45度向きを変え、顔が参道方向を向いたため、「お迎え地蔵」と呼ばれるようになったといいます。
坂本九歌碑 何故に坂本九?
お寺の話とは離れてしまいますが、ツツジ公園の一角には「坂本九歌碑」がありこれには「上を向いて歩こう」の歌詞が刻まれています。どんな縁があるのか?と思って調べてみたところ、戦時中、川崎に住んでいた九ちゃんは笠間市に疎開していて、そのような縁からこの碑が作られたようでした。
また、駐車場の横には「赤穂義士顕彰碑」があったようですが、気がつきませんでした。
何故、笠間に赤穂浪士?
これはかなり深い縁があり、浅野内匠頭の曽祖父、長重と祖父、長直が二代にわたって笠間藩を治めていたとの事。その筆頭家老が後に四十七士を率いた大石内蔵助の父、良欽(よしたか)でした。
大石良欽が笠間藩時代に住んでいた屋敷跡が今も佐白山の麓に残っているようです。長直は正保2年(1645)に赤穂藩主となりました。
また、四十七士の中には笠間生まれが3人おり、あの有名な堀部安兵衛が婿に入った堀部弥兵衛も笠間生まれだったようです。
この碑は駐車場の隅にあったようですから、事前に調べておけば見てこれたのに、と思うとチョット悔しいです。
さて、ここからは今回最後の訪問地、楽法寺に向かいます。
楽法寺までは20Kmチョットしかありませんから30分ほどで到着です。
24番札所 雨引山 楽法寺
通称、雨引観音と呼ばれ、これは嵯峨天皇の時代の干ばつ時にここでの法要によって雨をもたらしたことから、勅命で山号として雨引山と名付けられたと伝えられています。
駐車場から山門に向かいます。
朱色の山門は最近修復された物なのか、かなり綺麗です。左右に安置された金剛力士像は立派なもので、県指定の有形文化財となっています。寺の説明では運慶の父、康慶作となっていましたが、慶派の作に間違い無いが、康慶では無いようです。
お寺はどこもそうですが、見栄っぱりですね。お経の中身をもう少し勉強した方がいいのでは?と思う事がしばしば。
石段を上がりきると本堂のある境内に出ました。でも一番目に付くのは本堂ではなくその左奥にある多宝塔の方でした。
こちらは山門のように朱色ではなく黒く見える木肌そのものの渋い色で、良い雰囲気です。
標高は215mとそれほど高い場所にいるわけではないのですが、ここから見える景色は随分高い所にいるように感じるように感じてしまいます。周りに何も無い深山幽谷といった雰囲気がそう感じさせているのかもしれません。
境内ではクジャクを見かけます。平成8年頃から放し飼いにしていた物が自然繁殖して現在では十数羽まで増えたとの事。残念ながら、羽を広げた姿は見る事が出来ませんでした。
これで坂東観音巡礼も31札所が参詣完了。のこりは2寺。
いつまでコロナが落ち着くのを待っていても仕方ないので、9月末に残り2寺とそのついでにお礼参りまでしてくる事になりました。
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