信濃追分駅へ
北国街道歩き第1回初日。まずこの日一番大変だったのは清水からスタート地点となるしなの鉄道の信濃追分駅に辿り着く事でした。
清水を5:00に出発。中部横断道、中央高速で長坂ICへ。そこからは一般道を八千穂町まで行き、そこから再び中部横断道、上信越自動車車道と乗り継ぎ、ようやく小諸駅に到着しました。
ここからはしなの鉄道で信濃追分駅に向かいます。15分程電車に揺られていればスタート地点の信濃追分駅に到着です。
薫風が 旅へ誘う 朝(あした)かな 一秀
令和元年5月29日午前8時30分、ようやく北国街道歩き旅のスタートです。
駅前の通りはまだ北国街道でも中山道でもありません。狭く車の往来の激しい道なのに歩道も無いので怖いです。
20分程で中山道に出ました。
3年ぶりの追分宿です。まだ記憶は薄れていないので、懐かしい景色が続きます。中山道の時に見て感心したミニ図書館「夢の箱」も健在でした。
中山道に出て10分程でようやく北国街道の出発点である、「分去れ道標」のある分岐点に到着。
ここで中山道と離れ、北国街道がスタートします。
取りあえずの目標は130Km北の高田宿。
北国街道をスタートする
今日は寒いです。標高も1000m近い高地ですから、下界よりは数度は気温が低いのでしょう。それに太陽も出てこないので尚更寒く感じます。
アカシヤの 花降る如き 旅路かな 一秀
スタートから今日のゴールとなる小諸まではずっと緩い下り坂が続き、この間うしろには浅間山が見えているはずなのですが、今日は雲の中に隠れて見えません。
街道では度々見かける、明治天皇行啓の際に休息したという碑も、この地域ではかなり立派なものが建っています。当時、天皇が来たという事はとんでもなく名誉な事だったのでしょう。
小諸市に入り少し行くと「平原一里塚跡」の碑がありました。でも、説明看板が立つだけで何もありません。
セルフサービスの蕎麦屋さん
そろそろお昼時です。朝が早かったので腹も減ってきています。しかし、もう少し先に進まないと食事処は無さそうです。
東小諸の駅も近くなった頃、ようやく街道沿いの蕎麦屋さんを見つけました。これ以外にはありそうもありません。
ビールはあるのか聞いたところ、缶ビールがあるようです。しかしこのお店、全てがセルフ。セルフサービスの蕎麦屋なんて初めてです。さして大きくもない蕎麦屋でしたからセルフで無ければならない理由も無いのでしょうに。
人と接するのがあまり得意でない蕎麦屋さんなのでしょうか。
でも、蕎麦はそこそこでした。
すこしばかりのビールでほろ酔い気分のリスタートです。朝は見えていなかった浅間山も今は青空にクッキリです。
唐松一里塚
太陽も出てきて歩くには丁度良い陽気になりました。
蕎麦屋を出て30分程歩くと左右対で残る一里塚がありました。こちらは一里塚跡ではなく、左右の塚が現存する一里塚です。と言いたいところですが、本来左右にあるべき塚が何故か右に2つあります。どうやら、新道開発の時に一つの塚を二つに切ってその間に道を通してしまったようです。
この唐松一里塚は、追分で中山道と別れた北国街道の第3番目に当たるもので、小諸市内には、平原、唐松、青木の三ヶ所があったようですが、現存する一里塚はこの唐松一里塚だけとなっています。
朝からずっと、街道沿いには白い花をビッシリつけた木が続いています。あの木、何だろう?と各自勝手な解釈をしますが、結局あとで聞いたら、あの木はアカシヤだったようです。
街道沿いには立派な家が並び、蔵があるのは当たり前。門のあるお宅が多いのですが、この門にしても長屋門が多く、この長屋門だけでも家が一軒建てられそうな凄い門ももありました。
北国街道与良館
小諸の中心街も大分近づいて来た頃、「北国街道与良館」と看板を掲げた建物がありました。
時間もかなり余裕が有るので寄ってみました。折角の歩き旅なのですから、こんな時でないとこうしたものは見る機会もありません。
何故、小諸に高濱虚子?と思いますが、戦時中虚子はこの小諸に疎開しており、それ以前にも彼は度々この地を訪れ、句会を催していたという縁があった事によるもののようです。
ここでお茶や漬け物など頂き一休憩させて貰いました。
歩き旅では地元の人達とのこうした時間がけっこう楽しいものです。
信州味噌
与良館を出ると小諸市内に入っていきます。
10分程先に屋根の上に「御味噌」と書かれたもの凄い看板がありました。ここは300年以上も昔から続くミソの老舗「山吹味噌」の店でした。
長野は信州味噌で知られる味噌の大産地でその生産量は19万トン、全国シェアは実に46%にもなり、当然全国一の生産県となっています。
信州味噌がこれだけのシェアを占めるようになったのは1923年の関東大震災に乗じて首都圏の味噌市場を信州味噌が席巻した事が契機となったようです。
ここからゴールの小諸駅はあと僅か。街道沿いには味噌蔵や酒蔵の豪勢な建物が並びます。途中に昭和40年代まで味噌・醤油の醸造業を営んでいた商家の造りをそのままに生かして改装した「北国街道ほんまち町屋館」がありました。
しかしこれは北国街道と付いているものの、地域住民の交流の場として作られたもので、外からやって来た旅人の為の施設では無いようでした。
小諸城趾 懐古園
小諸城の大手門経由で小諸駅前まで来ましたが、まだホテルのチェックインの時間には早すぎます。そこで駅の裏にある小諸城趾(懐古園)に行って時間を潰す事にしました。懐古園には2年程前、今回のメンバーほぼ全員が来ています。でも、他に行くような所もありません。
小諸城は平安時代に起源をもち、戦国時代に武田信玄の命により山本勘助らによって縄張りがされ、原型が整備されたといわれています。
明治4年(1872)の廃藩置県で廃城となった小諸城でしたが、その後、小諸藩の元藩士らによって明治政府から買い戻され、大正15年(1926)に近代的な公園に生まれ変わりました。
三の門を潜って城趾内に入り、300円の散策券で園内に入ります。
二の丸
入って少し登った右手が二の丸。ここは慶長5年(1600)関ヶ原に向かう徳川秀忠が上田城攻めの為に本陣を構えた場所になり、ここから上田城を見渡せたといいます。
しかし本当に20km程北にあった上田城が見えたのでしょうか?
天守台
黒門橋を渡り、その先にある天守台に登ってみました。天守台の高さは10m程ありますが、手すりも何もありませんから、端まで行って下を見ると結構怖いです。
この天守台には金箔瓦で葺かれた三層の天守閣がそびえていたといわれます。しかし、寛永3年(1626)落雷により焼失後は幕府の許しが得られず再建されることはありませんでした。
水の手門
城趾の北西にあるのが水の手展望台で、かつてここには水の手門がありました。水の手門は、城内まで敵が攻め込んで来たとき、最後に、この門を出て眼下の千曲川に逃れることが出来たといいます。このことから「水の手門」と呼ばれました。
城内に敵が攻め込んでくることのないように祈願して「不開(あかず)の門」とも呼ばれました。
展望台からは真下に千曲川を望め、千曲川下流部対岸には布引観音もありますが、ここからは見えませんでした。
富士見台
城趾の南西にあるのが「富士見台」でここはかつて狼煙を見る為の遠見番所がありました。ここからは晴れた日には遠くに富士山を見ることができるようです。でも4回目となる懐古園なのに、これまでここから富士山が見えた事はありません。
甲斐の武田信玄は、上越の上杉謙信の動きを知らせるために、狼煙台を各地に築きました。川中島の合戦があった長野市から、信玄の甲斐国まで、約2時間半で狼煙の知らせが伝わったといわれています。
小諸市営動物園
白鶴橋を渡ると、大正15年(1926年)に開園したという長野県内では最古の小諸市営動物園を通って入り口に戻れます。園内にはこれといった動物は居ないので5分もあれば通り過ぎてしまいます。これで入園者はいるのか?と心配してしまう程簡素な動物園でした。
ようやく初日が終了
時間も午後3時を過ぎたのでホテルへチェックイン出来ます。車も最終日まで駐めておいて貰えるようにし、車を持ちに行きながら、夜の為の下見に繁華街を廻ってみました。店の数はそこそこありそうです。
車をホテルの駐車場に移動し、これでようやくホテルの部屋で休む事が出来ました。
今日の歩行距離は街道だけなら15Km程度だったはず。でもあちらこちらと歩き回った為に、GPSに記録された距離は20Kmを越えていました。
楽だと思っていた初日でしたが、疲れました!