高野山にお礼参り
2025年4月12日
四国遍路の最終日です。
昨日で結願寺の大窪寺までまわってしまったので、残るは高野山奥之院へのお礼参りを残すだけ。予定していた日数より1日早く済んでしまいました。
5日めの朝は京奈和道路の「道の駅かつらぎ西」で目覚めました。
時刻はまだ5時にもなっていません。
今日はお礼参りを済ませた後は静岡まで帰る事になるので、長距離の運転がありますから、少しでも長く寝ていたかったのですが、これ以上は寝ようと思っても無理なようです。
なら、早くスタートして早く帰宅してしまおうと、5時前から最終日のスタートです。
最終的な目的地は高野山なのですが、その前に12年前の車中泊西国巡礼の折にも訪れた丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)に寄って行く事にしました。
丹生都比売神社はその昔、水銀の元になる水銀朱(丹とか辰砂とも言われる)の総元締めだったと伝わる神社で、空海が高野山を開く際にも丹生都比売神社はその神領であった高野山を空海に与えています。
水銀朱はそのままで砕いて粉にすれば朱色の塗料にもなり、また昔からの薬に丹の文字が入っているように、薬の原料としても使われていました。
現在でも仁丹とか反魂丹など、丹の付いた薬があります。しかし今では水銀朱は入っていない筈で、これは昔の名残なのでしょう。
中国では昔から水銀は不老長寿の薬と思われていたようで、秦の始皇帝は水銀を飲んでいたとも伝わります。それに兵馬俑には水銀の川が作られていたといった話も聞いたことがあります。
始皇帝が家臣の徐福に莫大な資金と三千人もの人を預けて日本に派遣した目的も水銀朱探しと言われています。

空海も最澄と同じ時期に遣唐使として唐に行っていますが最澄のように国の代表として唐に行ったわけではなく個人的な参加でした。遣唐使として唐に行くには膨大な資金が必要となりますが、このスポンサーも、もしかしたら丹生都比売神社ではなかったのか?と考える事も出来ます。
丹生都比売神社では空海に唐で水銀朱の採掘技術を学ばせることが目的だったのでは?
空海が関わるところの土壌に含まれる水銀濃度は他と比べて高い所が多いと言うのも偶然とは思えません。

水銀朱は日本を縦断する中央構造線に沿ってに多く産出するようです。
中央構造線は九州北部から愛媛県に入り吉野川沿いに東に向かい、海を越えては紀の川を遡り、伊勢の近くから三河湾を横切り豊橋を通って伊那谷のやや東を北上しています。
今回の四国八十八ヶ所の札所も、愛媛から香川にかけては、この中央構造線の近くに多いという事もこのような理由によるものなのかもしれません。
丹を産出する地には丹生の文字が含まれる地名や川が多いのも確かです。特に高野山の周辺はかなりの数の「丹生」が見つかります。
私が住む庵原地区にも「新丹谷(あらたんや)」という地名があります。これももしかしたら、”新しい丹の鉱床が見つかった谷” だったのかもしれません。三池平古墳の石棺の中も、丹で真っ赤に塗られていましたが、新丹谷で採掘された丹だったのかも?
静岡県では丹生の名を負った神社は中央構造線近くの西部地区までで、そこから東にはないようです。
また、空海が持つ杖はその形を見ると錫杖とは違うらしく、これは山師のもつ杖といいます。
全国にある、弘法大師が見つけたと伝わる霊泉や温泉の類いも、もしかしたら空海が水銀朱を探している中でたまたま掘り当ててしまったものなのかもしれません。空海と水銀朱の関係について調べて見ると無関係とは思えませんが、こうした事ははっきりせずにあやふやでいる方が面白いものです。
空海と丹生都比売神社の関連はこれくらいにして、話をこの日の朝に戻します。
道の駅かつらぎ西から丹生都比売神社までは16Km程ですから、30分もあれば行けそうです。早々に最終日のスタートです。
5時過ぎに出発し、「紀北かつらぎIC」で降り、紀ノ川を渡って山の中に入っていきます。この道をそのまま進めば高野山に行きますが、途中で左折すれば丹生都比売神社のある天野集落に行きます。
丹生都比売神社


5:30過ぎには丹生都比売神社に到着しました。まだサクラが満開で、車の外に出てみると下界とは違って寒いほどです。
当然この時間に参拝者などいる訳も無く静かな神社境内です。
外鳥居を潜ると鏡池に架かる輪橋という太鼓橋があり、これはいい絵になります。鏡池には小浜の寺巡りの時に知った「八百比丘尼」に纏わる伝説が残っています。
800歳を越えてもなお十代の美しい少女の容姿を留めていたとされますが、八百比丘尼は死なない事を喜んでいた訳では無く、逆に死ねないことで一生苦しみ続けていたと伝わります。

また寛永4年(1627)に鏡池の底をさらった時、背に菊水小鳥を刻んだ3寸6分(約14cm)ほどの鏡が現れ、これこそが八百比丘尼の納めた宝鏡であるとも記されています。
この宝鏡は平安時代後期の作と想定され、八百比丘尼の生きていたとされる期間と重なるようです。
輪橋は神様の渡る橋なので、人が渡る事は出来ません。

その先にある「禊橋」を渡り中鳥井を潜ると正面に国の重文指定を受けている「楼門」が見えます。かなり立派な門で、廻りの緑に朱色の豪壮な門が映えてみえます。楼門から中に入ることは出来ないので、この門の外からの参拝になります。
門の先には四つの本殿が並びそれぞれに
第一殿 丹生都比売大神
第二殿 高野御子大神
第三殿 大食都比売大神
第四殿 市杵島比売大神
が祀られています。
境内は花も飾られ、綺麗に掃除されていて朝の静けさの中で、竹筒に挿された花が尚更綺麗に見えます。

この時間では社務所もしまっているので、参拝だけして、最後の目的地である高野山に向かいます。
しかし、まだ朝の6時を廻ったばかりです。このまま高野山に向かっても早く着きすぎて納経所の開くまでかなりの時間待つことになりそうです。そうかと言って、他に寄っていくべき所もないので、このまま高野山に向かいました。
高野山奥の院の入り口までは20Kmほどで、これなら30分ほどで到着出来そうです。
高野山 奥ノ院

高野山は2015年の5月以来ですから、丁度10年ぶりになりました。早朝なので道路も空いていて7:00前には到着してしまいました。
到着してから分かった事なのですが、納経所は8:00には開くと思っていたのに、どうやら8:30からのようです。
ますます待ち時間が長くなってしまいました。今日は静岡まで帰らなくてはならないので、少しでも早くお礼参りを済ませて、帰路につきたいところなのですが...
車の中にいてもつまらないので、これまではしっかり見たことは無かった供養塔や墓石をゆっくり見ながら奥ノ院に向かうことにして
7:00 には駐車場を出発しました。
献体碑
奥ノ院までの参道脇で「献体碑」と刻印された碑を見つけました。これには文章が刻まれていて、その内容は次のようなものでした。

碑の右側には
医学を志す若き志士貴人
心ある立派な医師に
なられんことを
ここに記す
夫婦共に 若き医学生に捧ぐ
そして左側は
空即是色
我が妻 三途の川で自我で待つ慈眼也
両目半盲にて書・読・算皆無なり
霊場までは我が手にて妻の手を引き
背負うて仲睦まじく蓮華の花咲く
極楽浄土への旅路
究極の夫婦の姿なのでしょうか.....
四国遍路の最後に凄いものを見てしまいました。
高野山は今回で4回目になります。しかし、これほど人の少ない高野山は初めてです。前回は丁度10年前の2015年で、この年は高野山開創1200年にあたり、山内では様々な行事が行われ、参拝者も凄い数でした。あの時に比べれば開店休業状態ともいえる人の数でしたが、どんな理由であれ宗教都市ともいえる高野山は静かなのが一番でしょう。

しかし、残念な事に、最奥にある燈籠堂は改修工事中で中には入ることが出来ませんでした。あとは8:30になれば開く納経所で御朱印を頂くだけ、と思っていたら、どうやら工事中なので納経所も別の場所に移っているようでした。
なんて事だ!
参道を少し戻りやっと、御朱印が頂けました。書いて頂いている人が一言、「お疲れ様でした」。このたった一言がもの凄く嬉しかったのです。
四国遍路 全て完了 静岡に無事帰還
これで2年掛かりで結願となった車中泊四国一人遍路の旅も全て終了です。あとは静岡に帰るだけ。
まずは下山です。来る時にはあれほどガラガラだった道路だったのに、いまは上ってくる車が渋滞している始末。丁度土曜日でしたから、参拝者も多い日だったようで、決して開店休業自体では無かったのです。
早く来てよかった!
ここからの帰り道はこれまでも何回か来ているところなので、静岡までの距離はかなりありますが、四国と違い近く感じて気分的にも楽です。
紀ノ川まで下り、そこから京奈和道路に乗れば、あとは静岡まで一般道に降りること無く信号なしで行けます。
心配した名阪国道もそれ程混んでいる事もなかったので、順調に進みました。
ただ長い道中は、時々襲ってくる睡魔との戦いで、サービスエリアに何回も寄っては、その度に顔を洗って目を覚ましながらの運転になりました。
午後3寺には清水に到着し、無事に帰宅できました。
これも、納め札に何回も書いた「願 無事の帰宅」のお願い事が叶ったということだったのでしょう。
帰ってきて1週間後には「2回目の四国遍路に出掛けたい」と思うようになりました。やはり一度88番まで廻ると病気になるという話は本当のようです。
自分も四国遍路中毒という中毒症に感染してしまったようです。
また、いつか機会があれば......
南無大師遍昭金剛