1日目 富岡製糸場 ロックハート城 吹割の滝
清水から富岡
カミさんの兄弟との旅行がこの2年程途切れてしまっていました。そこで今年は何処かへ!と言うことで今回は日光と言う事になりました。
しかし、予定した11月10日(日)は天皇即位のパレードのある日。下手すると関東方面の道路は混むことを予想し、軽井沢を迂回して富岡に向かうことにしました。
朝5:30、家を出発。中部横断道路ー中央高速と乗り継いで中央の長阪ICからはR141で清里を経由し途中松原湖で休憩しながら中部横断道路の八千穂ICへ。
これでは全線開通まではいかないで終わってしまうのかもしれません。
八千穂ICから少し進むと、佐久小諸JCTで上信越自動車道に分岐します。途中には横川、松井田、妙義など、中山道を歩いた時にみた懐かしい地名が出てきます。
松井田を過ぎると高速道路は南に向きを変え、中山道とは離れていき、最終的には上信越自動車動はこの先の藤岡JCTで関越自動車道にぶつかっています。
今回はそこまでは行かず、途中の富岡ICで降りました。
ICから富岡製糸場までは近く、間もなく今回の最初の目的地だった「富岡製糸場」に到着。
富岡製糸場
富岡製糸場は平成26年に世界遺産に登録されていますが、聞く所によればこの「富岡製糸場」は「韮山反射炉」とならんで日本の世界遺産の中では人気のないワースト2なのだとか。
そうは言っても世界遺産とあれば一度は見ておきたいものです。
見学料1000円を払って、施設内へ。
富岡製糸場は、明治5年(1872)に明治政府が日本の近代化のために設立した模範器械製糸場です。
明治維新後、政府は日本を外国と対等な立場にするため、産業や科学技術の近代化を進めました。そのための資金を集める方法として力を入れたのが、生糸の輸出でした。
政府は生糸の品質改善・生産向上と、技術指導者を育成するため、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場をつくることを決めました。
こうして作られたのが富岡製糸場で、これは現在までほぼ変わらぬ姿で残されています。
当時としては先進的な七曜制の導入と日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇、1日8時間程度の労働で、食費・寮費・医療費などは製糸場持ち、制服も貸与されたといいますから、驚く程の整った労働環境であったようです。
しかし、官営としてさまざまな規律が存在していたことや、作業場内の騒音など、若い工女たちにとってはストレスとなる要因も少なくなかったようで、そのため、満期(1年から3年)を迎えずに退職する者も多く、熟練工不足から赤字経営を生む一因にもなっていたといいます。
場内は資料の展示が主なものですが、繰糸所の建物内には使われていた機械がそのまま置かれていました。この機械は昭和62年(1987)に操業停止するまで使われていた日産サンプリンス製の自動繰糸機で、これとほぼ同じ自動繰糸機が安中市の製糸場で現在でも現役で働いているようです。
動いている様子を一度見てみたいものです。
ロックハート城
富岡製糸場からは北に進みます。高速に乗るか、どうしようかと思いましたが、時間的にはそれ程の時間差が無さそうなので、一般道を行くことにしました。
ところが、空いていると思った一般道も結構混んでいます。今日は日曜日ですから、無理も無いか。
安中に入った所で、信号に掛かりとまりました。目の前には見覚えのある名のホテルが!
「ビジネスホテルKAWA」
懐かしいホテルです。
二泊三日で出掛けた中山道ウォークの3回目の1泊目がこのホテルでした。
翌日、宿の主人に安中駅まで送って貰い、ここから信越本線で横川駅まで行ってから中山道最初の峠越えとなる碓氷峠越えになりました。
もう、3年半も前の出来事ですから、刻の経つのは早いものです。
安中から更に北へ進み、渋川まで行った所で、道路は山の中へ。
しかし、いっこうに紅葉した木々にはお目に掛かれません。
やはりまだ山が色づくには早いのでしょうか?
富岡から1時間半程でロックハート城に到着。
想像していたより小さな城です。
英国における名称はミルトン・ロックハート・ハウスでしたが、日本ではロックハート城と呼ばれており、ロックハートのスペルは Lockhart から Lockheart に変更されています。
1987年に俳優の津川雅彦が、北海道広尾郡広尾町に計画していたレジャーランド「夢の王国サンタ愛ランド」の中核施設とすべく、私費でロックハート城を購入しました。
1988年4月から7ヶ月をかけて建物を解体し、重量約600トン、個数にして約4,000個の石となったロックハート城は、30個のコンテナに詰め込まれました。
このうち130.5トンの石が入った8個のコンテナは、シベリア鉄道を経由して日本へ運び込まれ、残りのコンテナは貨物船で直接イギリスから日本へ輸送されました。
1988年12月13日、鉄道で輸送され港で船に乗せ替えられた8個のコンテナが、苫小牧港を経て十勝港で初陸揚げされました。
津川ら関係者と町民の合わせて約200人が岸壁に集まり、アドバルーンや五段雷の花火で石を歓迎し、コンテナはトラックで町営牧場へ運び込まれたものの、資金計画を巡って対立した町側から、レジャーランド計画の受け入れを拒否されたため、ロックハート城は宙に浮いてしまいました
1992年、総合石材業を営む沼田市の株式会社サンポウが、宙に浮いていたロックハート城を買い取り、同社が高山村に建設していたテーマパーク「大理石村」内で復元を実施。
15億円の費用と延べ15,000人の人員を投じて行われた復元は、1993年4月6日に完了して、高さが塔部で20mになり、幅31.3m、奥行き22.3mで、建築面積1,361㎡の建物が復元されました。
なお津川は、ロックハート城の名誉城主に就任しており、津川が長年かけて収集した1,100体以上のサンタクロースが、城内の「世界のサンタミュージアム」で年間を通して公開されています。
ロックハート家の祖先サイモン・ロッカードは、スコットランドの独立を勝ち取り今もなおスコットランド人が最も敬愛する英雄 ロバート・ブルース王に仕える騎士としてその名をスコットランド史に留めています。
1329年6月7日にこの世を去ったロバート王は、自らの心臓をキリスト教の聖地バレスチナに埋葬するように遺言し、この命を受けたのがロックハート家の祖先、サイモン・ロッカードでした。
しかし、折りしも激しくなった十字軍の戦いに遭遇し、このブルース王の心臓を祖国に持ち帰ることとなり、サイモン・ロッカードは戦況激しい中、王の心臓を「鍵をかけた小箱」に入れ、その困難な役目を無事に果たし、心臓をスコットランドのメルローズ寺院に奉納しました。
以来ロッカード家の紋章には鍵に囲まれたハートの図が加えられ、名誉を称えて家名もロッカードからロックハートに変えることを許されました。
気分だけはプリンセス かな?
天気も良く、青空に城の尖塔が映えます。しかし、ここは歳とった男の来る所ではありません。
城内には貸衣装を身に纏ったねーちゃん達で賑わっていても、年寄りなんて殆ど見かけません。たまにおばぁちゃんが、貸衣装を着てカメラの前でポーズをとっています。
この貸衣装代は
ドレスレンタル60分2500円
小物レンタル60分 500円
これが高いのか、安いのか?
うちの孫どもを連れて行ったら喜ぶかも?]
入ったばかりのところでレストランのおばさん?に捕まり、ここで昼食にしました。
このロックハート城ではテレビドラマ、映画など、数々のロケが行われているようですが、そのスタッフの食事と同じメニューがその名も「ロケ地カレー」。
薦められたのもこのカレーでした。どうせなら、とこれにしましたが、結構のボリュームでやっとこさ完食。
腹も膨れたところで上に上がり城の前に出ると、何とも華やかなドレスのねーちゃん達の群れ。
とてもじゃないけど、おじーちゃん達には場違いな場所に来てしまったとに感じてしまいます。
城の入り口にたむろするねーちゃん達をすり抜けて城内に入るにもいささか照れ臭さも感じる程の場違い感。
それでも、おねーちゃん達の写真は断った上でしっかり撮らせて貰いました。
それにしても、群馬の山奥にイギリスの城とは!!
鱒飛の滝と吹割の滝
山から降りて沼田の町に入ります。
予定では沼田城趾に寄っていく予定でしたが、ロックハート城で時間をとってしまったので、沼田城趾はパスし、そのまま吹割の滝に向かいました。
そこまでの道中はリンゴ園だらけ。リンゴ農園に寄ってリンゴを購入し(3家族でどれ程買ったのか?)そのまま北へ北へと進みます。
ようやく吹割の滝に到着。観光客の数もかなり多いようです。
駐車場に車を駐め、川に降りていくと最初に見える滝は「鱒飛の滝」。
昔は、利根川の支流である、この片品川にも鱒が遡上していましたが、この滝まで来ると段差がありどうしてもその上流に上れなかったそうです。鱒が懸命に越えようとして飛び跳ねていたことが由来し、鱒飛の滝と言われるようになったと言います。
ここから更に上流に行くと、高さ7m幅30m余にも及ぶ滝が見えてきます。
これが吹割の滝で、別名東洋のナイアガラといわれています。
この滝は河床の岩盤の柔らかいところが侵食され、多数の割れ目を生じ、その中の大きく割れたところが滝となり、あたかも巨大な岩が吹き割れたように見えるところから「吹割の滝」の名で呼ばれるようになりました。
周りの木々はそこそこ色づいているので、陽が当たっていればもっと綺麗に見えたのでしょう。
しかし、地形的にも午後になれば日陰になってしまうような場所なので、これは仕方ない事のようです。
川に沿って散策路を上流に進み、左に浮島がある分岐点まで行った所で、上に戻ることにしました。
やっとの思いでようやく道路まで上がり、車に戻りました。
しかし、この観光地、人がこれだけ集まるのに、公衆のトイレは川に降りていく途中に一カ所あるだけ。これは訪れる観光客にとってはあまりにも不親切と言うものです。
金精峠を越えて奥日光湯本温泉へ到着
R120を更に北へ進み、丸沼、菅沼を過ぎ、更に上へ上へ登って行くとようやく金精峠トンネルの入り口に来ました。
既に標高は1900m程まで上がっています。しかし、高度の割に気温はそれ程下がっていないようで車の外部温度計では4度。
トンネルを抜けると目の前には大パノラマが広がっていました。眼下には湯ノ湖、正面には男体山が大きく見えています。今日の宿は湯ノ湖の湖畔にある「湯本板屋」さん。
下まで下りきれば今日のゴールです。
途中、猿が出たり、鹿が出たりと賑やかな事。別に荒らされる農産物、農地も無いのでこれといった被害も無さそうです。
程なく、今日の宿、日光湯元温泉に到着。
車が大きいからなのでしょうか。大した疲れも無く、一日走ってくる事が出来ました。
お湯がやたらと熱い!といったイメージがあるのですが、やはり熱いのでしょうか。
やはり紅葉の時期は過ぎているようです。
2日目 中禅寺湖 日光東照宮
湯者温泉 源泉
朝早くに、宿の傘をかりて周りを散策してみました。
まず見てみたかったのはこの湯本温泉の源泉でした。泊まった宿からはすぐ近くのようなので雨の降る中を歩いて源泉へ。旅館街の山側は湿地帯になっていて、源泉はこの湿地帯で涌いています。
辺り一帯、物凄い硫黄臭で、体が硫黄泉臭くならないか?と思う程。
朝食の時間まではまだ少し時間があるので、この湿地帯の外れにある「温泉寺」まで湿原の木道を歩いて行ってみました。
温泉寺
驚く事に、この日光山温泉寺は、世界遺産「日光山輪王寺」の別院となっていました。
その歴史は古く、日光を開山された「勝道上人」が、延暦7年(788年)にこの温泉を発見し、病苦を救う薬師瑠璃光如来様をお祀りしたのが始まりと言われています。
江戸時代には、輪王寺宮の直轄寺院としてその名が徐々に広まりました。また当時は、この霊場を管理していた中禅寺上人と、日光奉行の許可を受けなければ、温泉に入ることができなかったと言われております。
この温泉寺は全国でも珍しい、温泉に入る事が出来るお寺で、志納金500円を納めればお寺の温泉に入る事が出来るようです。残念ながら、まだ受付時間(8:00am)にはなっていないので、入る事は出来ませんでした。
湯ノ湖
点灯された石灯籠の並ぶ温泉寺の参道を湯ノ湖の方に真っ直ぐに進んでいくと湖畔に出ました。
湖畔の草場からは湯気が上がっています。ここでも温泉が湧いているので、硫黄臭が凄いです。
温泉成分や山からの砂などで水深が浅くなり、湿地化する危機にありましたが、1997年に浚渫工事が行われ、危機を乗り越えました。温泉の湯が流れ込んでいるものの、水深が浅いため冬季には全面結氷することもあるようです。
竜頭の滝
宿で朝食を済ませ、2日目のスタートです。
まずは中禅寺湖に向かいますが、戦場ヶ原を過ぎ、途中で「竜頭の滝」に寄ってみました。華厳滝、湯滝と並ぶ奥日光三名瀑の一つとなっています。
既にこの時期では紅葉も終わり、木々は落葉してしまっていましたが、紅葉無しでも、流石に三名瀑の一つと言われるだけの姿です。
前回来た時には滝の上まで登ってみましたが、今回は岩も濡れているし、滑ったら恐い。上がるのは止めて中禅寺湖に向かいました。
中禅寺
今月末(2019.11)から坂東観音巡礼が再開されるので、また来なければなりませんが、どうなるのか分からないので、寄っていく事にしました。中禅寺湖から華厳滝へ流れ込んでいる川の橋を渡ると「立木観音」の標識があります。この立木観音は中善寺の別名。
中禅寺は、784年、日光開山「勝道上人」によって建立されましたお寺で、今朝行って来た温泉寺と同じように、世界遺産「日光山輪王寺」の別院です。
御本尊「十一面千手観世音菩薩」(国重要文化財)は、勝道上人が中禅寺湖上に千手観音を見て、その姿を境内の桂の立木に彫ったと伝えられています。この観音像は現在も地に根をはり、訪れる人々を穏やかな表情で迎えています。
本堂に入り、十一面観音の足下を見ると、確かに下の方まで根の部分が伸びているようでした。
ここで説明を聞いてから、一段上に建つ五大明王が並ぶ「五大堂」 まで上がります。しかし、この階段がえらい急な階段。上に付く頃にはヒーヒー、と息も絶え絶えです。
取りあえずは御朱印を頂き、これで「坂東観音霊場」三十三カ所のうちの9寺をクリヤーしました。
晴れていれば中禅寺湖対岸も綺麗なのでしょうが、中善寺参詣中に雨が降ってきました。
華厳滝
折角ここまで来たのだから、と華厳滝の駐車場に入りましたが、先ほどから霧が涌きだしてきました。上から滝を見ようとしても音だけは聞こえますが、姿は見えず。
これでは下まで行っても滝は見えないだろう、と今回はパスする事にしました。
いろは坂
いろは坂も紅葉シーズンは過ぎているので渋滞知らずで東照宮に到着です。昨夜、宿の仲居さんに聞いた話では、この間の紅葉ピーク時には、日光市内から奥日光まで4時間掛かったとか。
(因みに日光から清水まで帰りの時間は4時間チョットでした)よくも4時間の渋滞に掛かりながら行く気になるものだと、呆れるやら、感心するやら。
日光東照宮
流石に東照宮に近づくと道路も混んでいます。今回は輪王寺の横の駐車場まで上がってみました。そこまで行けば東照宮もすぐ近くですから、楽なはず。
車を駐めて久々の東照宮へ上がってみます。
これまでにも何回かここへは来ていますが、今日程の人混みは始めてです。これで拝観料が1300円/人 と言うのですから、1日の売り上げは一体いくらになるのか?なんて事も考えてしまいます。
調べてみたところ、2018年の年間参拝者数は260万人を突破したとか。
因みに単純に計算してみると年間33億円ほど。しかし、団体や身障の割引もあるのだから、ここまでの金額にはならないでしょう。
また、年間の維持管理費も膨大な金額になるのでしょう。
御朱印を貰おうにも、まず整理券を貰うまでに行列に並び、受け取る時にも行列に並び、これではたった一つの御朱印にどれだけ時間が食われてしまうのか分かりません。
東照宮はTVでも何回も見ているので、さして興味も沸きませんでした。
今日寄ってみたかったのは、これまでに行った事の無かった二荒山神社と、修復を終えた輪王寺。
二荒山神社は字の通り「日光」の語源になったとも聞いています。空海がこの地を訪れた時、二荒に日光の字を当て、この地の名前にしたといわれますが、これは伝の類いでしょう。
やはり神社は白木でひっそりと建っているのが一番です。
輪王寺
前回来た時には修復中で入る事の出来なかった輪王寺には興味津々。
ずっと前に来た時に見たような気もしますが、殆ど記憶には残っていませんでした。
外壁が茶の漆で塗られているので、一見鉄筋コンクリート製にも見えてしまいます。防虫や防腐を考えた場合にはこれが一番なのでしょうし、これが江戸時代からの輪王寺の姿だったのでしょう。
日光東照宮を含む日光の社寺は1999年に世界遺産に登録されました。その構成遺産として二荒山神社、輪王寺も世界遺産となっています。
今年は世界遺産に登録されて20年という記念すべき年でもあり、また新しく令和となった年号、それに加えて、平成の大改修も完了し、記念すべきものが3つも重なったおめでたい年なのだそうです。
そう考えれば、その年に訪れた自分達にも福がくるのかも?
輪王寺の周りは綺麗な紅葉で丁度見頃だったようです。最後にようやく綺麗な紅葉を見る事が出来ました。
黒衣の宰相 天海
黒衣の宰相としてしられる「天海」は78歳で輪王寺の貫主なっています。この天海はよく「明智光秀」だった、とも言われます。
山崎の戦いで秀吉に討たれた筈の光秀は実は生きのびて、後の天海僧正となったというものです。
そう言えば、西国巡礼で廻った京都亀岡の穴太寺が焼けた時、山門が輪王寺から送られたといいます。
亀岡の領主は光秀。光秀が亀岡城を築城した時には近隣の寺社より柱・扉といった部材や石材を築城資材として徴発しています。
光秀もこの事を大変申し訳なく思っていたと伝わります。
もし、天海=光秀ならば、その時の謝礼、恩返しとして穴太寺に山門を送ったと考える事も出来そうですが.....。
天海の出自はあまりハッキリしていないのでこうした話も出てくるのでしょうが、日光中禅寺湖の近くには明智平という地名もありますが、この名を付けたのも天海とか。
これも何かの縁があるように感じてしまうのは自分ばかりではないでしょう。
没年ははっきししていて寛永20年10月2日となっており、この時、満107歳といいます。随分と長生きしたものです。
そして、天海の墓が光秀の最後の領地となった近江坂本にあるといいます。
2日間、群馬、栃木と廻ってきた今回の旅行でしたが、最初予想した程の寒さにもならずこれは助かりました。
日本は年々暖かくなっていくようで、今に年明けの正月にならないと紅葉は見られなくなってしまうのかもしれません。
さて、清水へ帰ります。