北国街道 第3回 長野ー妙高高原

1日目 長野駅ー牟礼宿

7月に善光寺まで進んで止まっていた北国街道ウォークもそろそろ再開しなければ!、と10月下旬で計画を起て、早々に宿も確保しました。

宿の女将さんの話によれば、年によってはこの時期に初雪になることもあるとか
となると、年内はこれが最後の北国街道になりそうです。
旨く行けば紅葉の時期にはまるかもしれません。

「善光寺」ー「新町」ー「牟礼」

善光寺参道
善光寺参道

10月30日、午前4:30、清水を出発。3時間と少しで長野駅に到着しました。高速道路のお陰で昔に比べれば嘘のような短時間で長野まで来てしまいました。

旅立ちの門に集きしちちろ虫  一秀

途中、今夜一泊お願いしていた宿の女将さんから電話があり、体調が悪く、今夜泊める事が出来なくなったとか。
代わりの宿をお願いしてくれたそうで、ほっと一安心。

宿替えの 突然の報 五里霧中 一秀

長野駅の東側には駐車場も多く、車の駐車場所には苦労しません。
長野駅から善光寺の大門までは前回で歩いているので、その間は路線バスで行こうかとも考えましたが、初日歩く距離はたかだか14Kmと短いので駅から歩く事にしました。

颱風禍 思いは千千に行く旅路 一秀

善光寺前まで来たところで街道は東に方向を変えます。何も見る物も無い街道を只ひたすら今日のゴール、牟礼を目指して進みます。

新町宿

千本格子
街灯に北国街道の文字

記憶に残っていない新町宿

信州に多い双体道祖神
八幡宮
収穫されたリンゴですが、傷物のようでした。
道祖神 誰か手向けし野紺菊 一秀
六地蔵
長閑な景色が広がります
明治天皇の田子御休憩所。飯山城の裏門を移築したという大門。

善光寺宿と牟礼宿の間には新町宿という宿場が一つあります。しかし、現在の地名と結びつくところも無く、結局分からずに通り過ぎてしまいました。

帰ってきてから調べたところ、新町宿は「しんまち」ではなく「あらまち」と読むようで、この宿場は善光寺から東方向に進んできた街道が北に向きを変えた辺りだったようです。

ブロック塀に埋め込まれたかつての馬繋ぎ石。

思いだそうとして、撮ってきた写真を見ても記憶に残っている景色 はあまりありませんでした。

田子池

鴨の遊ぶ田子池
田子池の前の山にあった石仏群。百観音霊場の観音像を纏めたもののようです。
綺麗に紅葉した葉
公園も今では使う人も居ないようで荒れてしまっています

この新町宿を過ぎた辺りで左に見えるのが「田子池」。その右に「南無妙法蓮華経碑」があり、その裏手の山には石仏群が有るようなので、大した登りでも無し、登ってみました。

上は平らになっていて、公園になっていましたが、もう長い間遊具で遊ぶ子ども達も居ないのでしょう。遊具も朽ちていて、遊べるようなものではありませんでした。

公園よりもう一段上がったところに石仏群が有りました。どうやら、昔は坂東、西国、秩父の観音霊場の100観音が揃って祀られていたもののようです。

草刈りもあまりされていないようで、荒れてきてしまっていたのは残念です。しかし、戸数も少ないこの集落で、これを維持管理していくのも大変な事なのでしょう。

コンビニのおにぎりで昼食。
何と読めば良いのか?

時間も丁度昼飯時、長野市街のコンビニで仕入れてきたコンビニ弁当(おにぎり)で昼食にしました。目の前の畑はりんご園で、真っ赤になったリンゴが撓わに実り収穫を待っています。
さて、腹も膨れたところで、再出発です。 吉の集落を過ぎると街道は少しづつ標高を上げていきます。
とは言っても今日の最高地点までの標高差はせいぜい200m程度ですから、それ程大変なものではありません。

をちこちに 鳥追ひの凧リンゴ畑 一秀
三本松峠への登り
周りは収穫を待つりんご園だらけ

三本松峠と四ツ屋野一里塚

午後1:30 今日の最高地点になる三本松の峠に到着。
左手前方には高い山が見えていますが、霞んで全体の山容は確認できませんでした。

帰宅後調べてみたところ、晴れていれば、左手(西方)には信越五岳(飯綱・黒姫・戸隠・妙高・斑尾)のパノラマが広がっていたようです。

四ツ屋の一里塚
りんご園で仕事中でした。
松が絶賛したという景色もこの日は霞んで見えなかった。

ここからの景色は 前田利家夫人(松)が、江戸への道中で一番景色のよい所と絶賛した場所といいますからさぞかしの絶景だったのでしょう。

峠からは牟礼に向かっての下り道になります。500m程下ったところから脇道に入り、入ったばかりの所にあるのが四ツ屋の一里塚。
今回の道中では、実際に一里塚は残っているものは少ないものの、各一里塚についての説明看板だけはしっかりしていました。

リンゴ栽培は大変!

この一里塚の横にあるりんご園で仕事中のおねぇさん方がいたので、いろいろな話を聞くことが出来ました。

何でも、リンゴは収穫までに一個のリンゴに100回触れるくらい手を掛ければ良いリンゴが収穫出来るのだとか。

この時も、収穫間際の着色を薦める為に、リンゴへ陽がよく当たるように葉をむしり取っていました。
と、同時に軸を捻ってリンゴの向きも変え、全体が旨く着色するようにしていたようです。

手際良く 農婦捻りしリンゴかな 一秀

ミカンでは考えられないような細かな栽培管理がリンゴには必要なようで、元ミカン生産者の自分はビックリ!! 自分はとてもリンゴ栽培は出来そうに無いようです。

このお姉さんに、時間が余ってしまったので、どこか行く所はない?と聞いたところ、駅の観光案内所で聞くのが良いとの事でした。

ここから駅まではそれ程の距離はありません。駅まで行く途中には今夜お世話になる朝日屋旅館さんもありましたが、取りあえずは駅の観光案内書を優先して宿はパス。
ところが、この観光案内書、土曜日はお休みでした。
観光案内書が土曜日が定休日?
そりゃ無いでしょ!!

牟礼の町に下っていきます。
しなの鉄道「牟礼駅」

牟礼宿 朝日屋旅館

仕方ないのでそのまま宿にチェックイン
こちらの宿の女将さんも今朝急に頼まれたので驚いたとのことでした。でも、都合の悪い時にはいつも女将さん同士で融通し合っているのだそうです。

通された部屋は新しくはありませんが、使われている材料は旅館らしくない本物の無垢材でした。
天井板や違い棚、床柱など見事なものでした

女将さんに聞いたところ、この宿を建てた先代だか先々代が自分の納得のいく建物を建てようとしたら、こうした作りになったのだとか。

宿の部屋。何とも凝った作りです。

食事は長野野の山の中ですから大した事はありませんでしたが、自分にとってはこれで十分。
6:30pm食事完了
よく呑みました。

朝も早かったし、朝から歩いた疲れもあったのでこのまま就寝となってしまいました。
朝まで殆ど寝ていたのでナント睡眠時間は10時間くらいになったようです。

2日目 牟礼宿ー妙高高原駅

2日目のスタート

朝から天気は良さそうです。予想していた程気温も下がっていないようで、静岡とそれ程変わりません。

7:25am 今回のゴール妙高高原駅を目指し宿を出発しました。子供達の登校時間と重なり、廻りには登校中の子供が多いです。何処へ行ってもそうですが、田舎の子供達ほど挨拶をします。都会の子どもは黙っているだけ。
田舎の方が子供達も安全なのだという事なのか。

こちらでは「知らない人と口きくんじゃないよ!!」なんて言う親も居ないのでしょう。
正面に黒姫山が大きく見えています。子供に何て山なのか聞いてみてもどうやら知らないようでした。

立派な卯建
證念寺 真宗の寺のようです。

江戸と金沢の中間地点

宿から約2Km。
この辺りが江戸時代には江戸と金沢を結ぶ街道の中間地点であったようですから、ここからも金沢はまだまだ遠い地のようです。
何故金沢なのか?
やはり加賀百万石の威光なのでしょうか。

江戸と金沢の中間地点の標
ここからはしなの鉄道とも離れていきます。

ここから少し進んだところで北国街道は山の中に入っていきます。そうは言っても街道は狭いながらも舗装された道路なのでそれ程の急坂でもありません。

小玉坂
緩い坂道なのでそれほど苦にもなりません。

小玉坂 と小玉の一里塚

小玉の一里塚。現在は林の中。
小玉坂

この小玉坂の古道は「美しい日本の歩きたくなる道500選」にも選ばれている林間の気持ちよく歩ける街道になっています。

林の中に、昨日の「四ツ屋の一里塚」の次の一里塚「小玉の一里塚跡」がありました。自分達とは逆に西から来た旅人には、ここから次の「四ツ屋の一里塚」が鳥居川の断崖越しに見えたことでよく知られた一里塚だったようです。
しかし、現在では植林された木々が廻りを覆ってしまい、全く眺望は効かなくなってしまいました。

古間・柏原宿

落影集落

スタートから1:20程で周りが開け、落影集落に出ました。落影には江戸時代、立場(休憩所)がありました。

国道18号線に出て500m程進み、今度は左の脇道に入ります。下りきった所にある集落が小古間の集落。1Km程進むと再び18号線に出ますが、北国街道は国道を横断し反対側の脇道に入ります。
いかにも旧街道といった街道が古間の集落を真っ直ぐに抜けていました。

個人の収集した品を展示していました。
小玉の一里塚から約4Km 古間の一里塚跡
古間宿の街灯
かつては鍛冶屋が数件あったようです。

古間と柏原は二つの村で宿場管理を行っていた合宿でした。
古間は鍛冶屋が多く、そこで作られた鎌は古間鎌ブランドで名が知られていたようです。しかし、現在では鍛冶屋は見られませんでした。
古間を抜けると国道までは急坂を登ります。

小林一茶終焉の地

やっと登りきって150m程進むと柏原に入っていきます。
右手に小林一茶旧宅の案内があり、屋敷内には幾つかの建物がありました。

一茶は晩年をここで過ごしたようで、一茶終焉の地となっています

林一茶旧宅跡。ここが一茶の終焉の地になりました。
火災で家が焼け、最後に暮らしていた土蔵でしょうか。
扁額には「無量壽」
これは一茶の弟の家のようです。

残念ながら住んでいたという建物は残っていません。
道路に面して建っている茅葺きの建物は弟の弥兵衛の家で、父親が亡くなった時、遺言により家屋敷・田畑を弟と分け、北半分が一茶、南半分が弟の弥兵衛のものとりました。

一茶は52歳で、ようやく妻を迎え、4人の子供をもうけましたが、次々に亡くなり、妻にも先立たれてしまいます。その上宿場の大火で類焼し、文政10年(1827)焼け残った土蔵で65歳の生涯を閉じました。生涯で2万句もの俳句を残した一茶でしたが、家庭的には恵まれなかったようです。

町中一茶の句碑だらけ

街道沿いには一茶の句碑が多く、一般住宅でも庭に句碑のあるお宅を何件か見つけることが出来ました。
一茶は町の偉人として令和になった時代でも未だに人気のある人物のようです。

梅雨の玉 ひとつつひとつに故郷あり
そば所と 人は云う也赤蜻蛉
酒土瓶 茶どびんと出るこたつかな
陽炎や きのふは見えぬだんこ茶屋
唱歌、村の鍛冶屋はこの村で作られたようです。
鎌の展示即売している店があったので入ってみました。

この先のお寺に一茶の墓があるようなので寄ってみましたが、そのお寺では見つかりませんでした。どうやら、こちらの勘違いで、一茶の墓はこの先の一茶記念館近くの小丸山公園にあるようでした。
街道からは少し離れているようなので、残念ですが今回は諦めました。

そろそろ腹も減ってきて、何処かで何か食べたい時間です。
そんな店を探しながら進んで行くと、面白そうな店がありました。
古間で作られた刃物を展示即売している店のようで、中に入ると買って帰りたいような鎌が沢山並んでいました。
しかし、これからの道中、またゴールしてからの電車で鎌を持って行く訳にもいきません。そんな事したらたちまちお縄ものです。

今回は諦めて、また何かの機会にこの近くへ来た時にでも寄ってみようと思います。

実はこの道路は昨年、家族旅行で来た時に走っていました。時期的にも丁度1年ぶりで、地図で確認した所、その時には車で一茶記念館の前も通っていました。

ようやく昼飯!

 

ようやく見つけた蕎麦屋さん。

この先からは野尻湖に向かって下っていきます。途中で蕎麦屋さんを見つけ、ようやく昼飯に。
昨日はコンビニ弁当でしたが、今日はビール付きの豪華昼食となりました。

天ざるを頼んだら、天ぷらも蕎麦もその量が凄い! それにビールが加わり、腹はパンパンになりました。
腹も膨れたところでゴールの妙高高原駅を目指してスタートです。
蕎麦屋の少し先で街道は国道から分岐し、野尻湖畔に降りていきます。

野尻の一里塚
ようやく野尻湖まで来ました。

野尻宿

多分、開館していなかったでしょう。

野尻宿は現在では宿場の面影は殆ど消えてしまっていますが、野尻湖だけは昔そのままの姿を残しているのでしょう。

野尻湖の成因には諸説あります。定説では、斑尾山、または黒姫山の噴火により池尻川が堰き止められて出来たと言われています。

また、野尻湖ではナウマン象の化石が湖底で発掘されており、出土した遺物は現在野尻湖ナウマンゾウ博物館で展示されているようです。
夏は避暑で賑わうと思われる野尻湖も今は閑散として静かなものでした。

野尻宿の外れにあった廃寺。檀家は居ないのでしょうか?

野尻湖を過ぎると少しづつ登りになり、峠を越えてからは正面に妙高山を見ながら下ります。途中から国道から離れ、雪洞門続きの街道を下っていきます。一茶が51歳で結婚した時の奥方は赤川というこの辺りの出だったとか。

リゾートホテルかラブホテルか? 廃業したようです。
こちらも廃業して暫くたつラブホテル?
多分、妙高山
赤川一号洞門
赤川集落。一茶の奥方の出身地?
長野と新潟の県境

関川宿 長野県から新潟県へ入る

上から立派な太鼓橋が見えたので何かと思ったら、下りきった所にあったのは「関川関所」でした。
上から見えた太鼓橋は関川と池尻川の合流地点に掛けられた橋でした。

北国街道は佐渡で産出した金銀を運んだ街道と言う事もあり、幕府にとっても重要な街道だったようです。街道はこの橋を渡って関川の関所に入っていきます。

関川の 関所うつけ等通る秋 一秀
街道はこの橋を渡り関川の関所へ入ります。
古いものでは無いようです。
関所入り口の門
金さんと銀さんの像
関川関所

また、この川が長野県と新潟県の県境にもなっていました。
いよいよ新潟県だ!!
思えば遠くまでよくも歩いて来たもんだ!

関所に入るのはパスして、外から見て済ませました。
不思議なことにこの関所にはあの金さん銀さんの像がありました。どうやら、北国街道は佐渡で産出した金銀を運んだ街道なのでそれに因んでと言うことのようです。

街道沿いにあった庭園。小堀遠州の弟子の作だとか。
こちらも近くにあった庭園

天神社の大杉

ここまで来ればゴールの妙高高原駅までは3Km程度。
地図を見るとこの先に「天神社の大杉」と書かれています。なにやら杉の巨木があるようで、これは見ていかねば!!

緩い坂道を登って行くと左手に神社がありました。境内に入ると拝殿の前に推定樹齢1,000年といわれる、国指定天然記念物の大杉がありました。

天神社の大杉
ここで最後の休憩です。

確かに大きな杉の木ですが、これまでにも大きな杉の木は沢山見てきたので、この程度の杉の木では驚く程でもありませんでした。
電車の時間には余裕が有りそうなので、ここでゴールを前に暫しの休憩です。

スキー神社

スキー神社

この先に「スキー神社」という珍しい名前の神社がありました。
何とも変わった名前ですが、スキーの神様でも祀っているのでしょうか?
でも、スキーの神様って誰?

調べてみたら、以下の通りでした。
高雷神(雪、雨の神)」「闇雷神(同)「少彦名神(医薬・温泉の神)」、そして「酒井薫命(日本で初めてのスキー犠牲者)」。

スキー犠牲者が祭神となっている事にはチョット驚き。
なんでも、酒井薫氏は、日本スキー倶楽部(高田)のメンバーとして1914年(大正3年)1月5日、富士山のスキー登山に挑んだそうです。七合五勺付近で、スキーをアイゼンにはき替えて登はん中、足を滑らせて転落し死亡したとの事。「日本スキー発達史」(山崎紫峰著)には「我が国に於けるスキー登山の初犠牲者」と記されています。

妙高高原駅にゴール

無駄に遠回りしてしまいました。
やっと到着。妙高高原駅

ここから妙高高原駅までは素直に進めば良かったのですが、余計な詮索をしたばっかりに、無駄な上り下りをする事に!!
それでもようやく、しなの鉄道「妙高高原駅」にゴールイン

しなの鉄道の北限の駅 妙高高原駅
見慣れた感のあるグレーと赤のツートン

長野方面から来た電車も何故かここで折り返し運転になっています。北国街道スタート時からずっとお世話になってきた、しなの鉄道はこの妙高高原駅までのようで、ここから先はえちごトキめき鉄道になるようです。
スキーシーズンにはさぞかし賑やかになるであろうこの駅も今はシーズンオフの静けさで、人も疎らです。
ここから1時間程電車に揺られていれば長野駅に到着。

今回の歩行距離
1日目 14Km
2日目 19Km
以上は地図上での計画の距離であって、記録をとったGPSのデータでは2日間で38Km程になっていました。
あと1回でゴール出来そうですが、日本海まで行くとなると2日間では微妙なところ。
これは二泊三日にして、ノンビリしてきた方が良さそうです。

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