伊豆88遍路歩き旅 第10回

第10回は稲取駅ー河津駅

海岸線を行くのではないようです。
標高は然程でもありませんが、8Km地点までは上りの連続。

令和2年最初の伊豆遍路は5日に行く事になりました。次回は稲取駅から河津駅までの約18Km。
前半の8Km程は上り坂のようで、毎度ながらそうそう簡単にゴールさせては貰えないようです。

ずっと海岸線を行くのかと思っていたら、途中からは山の中に入り少し高い所を進み、河津川の上流部に降りていくコースでした。

河津町の35番栖足寺は庵原にあるお寺の奥さんの実家と云う事のようで、現在のこの寺のご住職も面白い方のようなので楽しみにしています。

今度は河津まで車で行った方が良さそうです。

 

伊豆88遍路 第9回

伊豆高原ー稲取 標高グラフ

今年最後の遍路旅は伊豆高原〜稲取

今年3月に始まった伊豆88遍路てくてく旅も今回で既に9回目、日数にして10日目になりました。これまでに歩いた総距離は地図上で約170Km 。ペースは17Km/Day になります。

東海道を歩いた時の一日の最低距離は江尻〜鞠子間の17Kmが一番短い距離でしたから、10年経って脚力、体力も大分落ちてしまったようです。

今年最後の遍路は伊豆急の伊豆高原駅から伊豆稲取駅までの約19Km。今回もアップダウンがかなりあるようで、いつもながら、早々簡単にゴールは出来そうもありません。 “伊豆88遍路 第9回” の続きを読む

坂東観音巡礼 復活第1回

2年ぶりの坂東巡礼

西国巡礼が今年の3月に満願となって、お寺参りとはは暫くの間途絶えていました。とは言っても伊豆88遍路でお寺は嫌になる程廻っています。でも自分の中ではこの遍路旅はお寺参りというより、街道ウォークといったものになっています。

坂東観音巡礼は2年前の秋、東博で開催された「運慶展」を見に行った際、茨城県にある札所2寺を参詣してからはそのまま止まったままで、それ以前に廻った鎌倉と小田原にある1番から5番までと合わせても7寺にしかなりません。
スタートしたからには、秩父、西国と合わせた100観音巡礼を完結しようと、今回2年ぶりの坂東巡礼再開となりました。

雲に浮かぶ真っ白な富士山

復活初回は神奈川県の近場なので、そんなに早く出発する必要もありません。
のんびりと、朝6:30清水を出発し新東名を東に走ります。

昨日は雨、そして今朝はかなり冷え込んでいます。今日行く伊勢原の最低気温は7度の予報が出ているくらい。

雲に浮かぶ真っ白な富士山

新東名で吉原トンネルを抜けると予想通りの霧が。
そしてその先、ネオパーサ清水の辺りからは、朝日に照らされた富士山が雲の上にクッキリと浮かんでいました。
こんなに綺麗な富士山は静岡に住んでいてもそうそう見る事も無いような見事な富士山でした

富士山の東側に廻ると麓まで真っ白でした。
今日行く大山も寒そうです。
秦野中井ICで降りて、まずは今日最初の目的地、平塚にある7番札所の光明寺に向かいます。

7番札所 光明寺

金目川の畔に立つ金目観音 光明寺

渋滞も無しに、光明寺の駐車場に到着。予定より20分程遅れての到着でしたが、8:00だと思っていた納経受付時間が実は8:30だったので逆に早すぎた到着となってしまいました。

しかし、少しくらい早くても入れて呉れるだろうと、境内に入ってみました。
伝承では大宝2年(702)に海女が海中から観音像を得た後にわが家の奥に奉安し、その後道儀上人が一宇を建立しこの観音像を安置したのが光明寺の始まりと伝えられています。

]頼朝の妻、北条政子が実朝を出産する際に安産祈願したことでも知られ、仁王門に安置される仁王像は関東では最古のもの。
本尊は聖観音菩薩で別名、金目観音と呼ばれています。

阿形像
巨大な草履
弘明寺観音堂
本尊は聖徳太子作とも伝えられる「聖観音菩薩」
人々の厄を背負い込んで顔まで消えてしまったビンズルさん。

歓喜堂

歓喜堂には歓喜天が祀られている。

堂内には大聖歓喜大自在天 (略して歓喜天) を祀っています。魔障を除く守護神で、他のどこの神社仏閣でも叶わなかったあらゆる願望が叶えられるといいます。なお堂内には、七福神も祀られています。

これまでにもあちこち寺参りはしてきましたが、歓喜天を祀っている所は初めてです。歓喜天は秘仏となっているのが一般的ですが、こちらの歓喜天もやはり小さな厨子の中に鎮座しているようでした。
歓喜天の特徴はその姿で、象2頭が抱き合う姿は異様に見えます。

水琴窟

随分長い竹の棒を突っ込んだ水琴窟

水琴窟があるお寺は結構見かけますが、綺麗な音の聞こえる水琴窟はあまりあるものではありません。この光明寺の水琴窟も、音の発生源である窟から竹筒を伸ばして、参拝者が聞く事が出来るようにしてあります。
しかしこの竹筒が長すぎて、結局耳に届く迄には音は小さくなってしまいます。

大山阿夫利神社

光明寺から伊勢原に向かい、大山阿夫利神社へ参詣です。
2009年の冬、当時東海道を一緒に歩いていた友人一同で詣でた事がありました。あれから11年が経とうとしています。10年前に来たのは2月14日のバレンタインデイ。この日日本列島は全国的に気温が上がり、この日最高気温を記録したのは清水で、26度オーバーのとんでもなく暑い日でした。
そんな中で、酔っ払って、山の装備ゼロでなんと無謀にも大山の山頂まで登ってしまいました。

今回は10年前とは打って変わって、今日は冷え込んでいるようです。
早く来た人から順に上の駐車場から駐めてくるので、こちらは既に満車でした。
下から見る大山山頂は雪なのか、霧氷なのか、青空の下、綺麗です。

大山ケーブルカーまでは20分程歩きます。

こま参道

こま参道の丁石とも言える独楽の絵。

ケーブルカーの駅までは「こま参道」と名付けられ、狭い土産物店が長く左右に並んでいます。

所々にある石段の踊り場には独楽の絵が描かれ、この絵で何番目の踊り場なのかを表しています。説明によれば大きな独楽は10の単位、小さな独楽が1の単位を現しているとの事。
何故「こま」なのかと思ったら、ここは「大山独楽」が特産品なのだとか。

紅葉はそこそこに紅葉しています。

20分程でケーブルカーの駅に到着しました。今日は金曜日、ウィークデイと云うのに、大勢の観光客がいます。阿夫利神社への参拝だけでなく、大山への登山者も多いようでした。

大山ケーブルカーで阿夫利神社へ

大山のケーブルカーは全長0.8㎞、標高差278mの急勾配を所要時間約6分で中腹の阿夫利神社下社まで運んでくれます。1965年から営業運転を行っていますから、既に50年以上もの歴史をもつケーブルカーです。

洒落た色の車両です。
ケーブルカーからの相模湾。江ノ島が見えていました。

途中には大山寺駅もあり、ここから数分歩けば大山寺があります。大山寺は東大寺の初代別当となった良弁によって開山された真言宗のお寺で、本尊は「大山不動」となっています。
今回は大山寺はパスし、そのまま上の阿夫利神社駅まで上がります。

阿夫利神社

大山阿夫利神社

大山阿夫利神社は、今から2200年以上も昔、人皇第十代崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている式内社です。
しかし、2200年前となると紀元前の時代。まぁ、1940年には神武天皇以来2600年と云うのですから、10代の崇神天皇なら、2200年前と云われてもおかしくは無い事になってしまいます。

祭神は大山祇大神で、この大山祇大神の子が浅間神社の祭神である「木花咲耶姫」で彼女は富士山の神様。鳶が鷹を生んだという事でしょうか。

背面の大山は霧氷か雪で真っ白

大山祇大神と木花咲耶姫

神々の系図をもう少し辿ってみます。
木花咲耶姫の夫は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)で、よく知られている海幸彦(火照命)と山幸彦(火遠理命)はこの二人の間に生まれた子。この山幸彦は海の神である綿津見神の娘、豊玉毘売命(トヨタマヒメ)との間に天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへず)を生みます。何とも長ったらしい名前です。

実は、この出産時にある事件が起こります。中を絶対に見るな!と云って、産屋に入った豊玉姫でしたが、夫の山幸彦は興味津々でとうとう中を覗いてしまいました。
産屋の中ではワニに姿を変えた豊玉姫が蛇のようにうねっているのを見て恐れて逃げ出してしまいました。覗かれた事を恥じた豊玉姫は実家(海の中の宮殿)に帰ってしまいました。しかしその後、火遠理命が覗いたことを恨みながらも、御子を養育するために妹の玉依毘賣(タマヨリヒメ)を遣わし子の養育にあたらせます。
玉依姫に育てられた鵜葺草葺不合命は後に玉依姫と結婚して4人の子を生みました。4人目の子は若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)といい,またの名を神倭伊波礼比古(カムヤマトイワレビコ)といい,これが初代天皇の神武天皇になります。
といった、格式の高い神、大山祇大神を祀るのがこの大山阿夫利神社です。
拝殿の屋根越しに、青空の下に映える真っ白な大山が綺麗です。しかしそれだけに寒い!!

拝殿
標高は696mあり、下界が見渡せます。
拝殿前で記念撮影

今日の伊勢原の10時時点の気温は7度の予報でした。そこから約600mは上がっていますから、今の気温は3度〜4度くらい?それに冷たい風が吹いてくるので超寒いのです。

外人さんも結構見受けられます。静岡に住む自分達にはあまり縁の無い大山阿夫利神社ですが、東海道を歩いた時、大山道の古い石造り道標はあちこちで見ました。昔の江戸庶民にとっては身近にある信仰の場所だったのでしょう。

時間も予定よりは遅れ気味。そうそうゆっくりもしていられないので、早々と下山しました。大山の名産はコンニャクと豆腐。どこの店でもこの二つは食べられるようでした。そして是に加えて必ずあるのがしし鍋。イノシシもそんなに多いのでしょうか。

良弁の滝

北斎が描いた「良弁の滝」
大山寺を開いた良弁を祀る開山堂。隣には良弁が入山の時に水行を行った滝と伝えられる良弁の滝があります。

駐車場の前を流れる沢の向こうに「良弁の滝」と名付けられた滝がありました。水量も僅かな、小さな滝です。
大山寺を開山した良弁僧正が最初に水行を行ったという高さ3mほどの滝で、江戸中期以降に大山詣りが盛んになると、人々が滝で水垢離をとる様子が錦絵の題材になり、これがますます庶民の大山への憧れを誘う事になりました。

6番札所 長谷寺

大山から下界へ下り、40分程走って長谷寺に到着しました。
長谷寺は丹沢山系から東にのびる尾根の東の端、海抜280メートル余の白山の中腹に位置します。
飯山の観音さん、縁結びの観音さんとしても知られています。
長谷寺の山門はいつぞやの台風で損壊を受け、現在は修理中で門を潜る事は出来ませんでした。

山門の上にある六地蔵
台風で損壊し修理中の仁王門。
樹齢400年という犬槇。

山門の上には樹齢400年と伝わる「犬槇」の巨木があり、その大槙から更に上に向かって石段が伸びています。

登り切った境内には左右に石灯籠が並び、その奥に観音堂がありました。
この観音堂は、江戸時代に建立されたものと推定され、銅板葺(以前は茅葺き)の宝形堂。堂内には本尊の木造十一面観世音菩薩立像が納められています。

本尊の十一面観音像は神亀2年(725)、この近くに五色に輝く泉があり、行基がその近くを通りかかったとき、泉から観音菩薩が現れたので、クスノキで十一面観音像を刻み、泉から現れた観音さまを胎内仏として寺を開創し安置したと伝えられています。

本堂(観音堂)まで両側に石灯籠が並びます。
観音堂
楠の切り株。かなり太い楠だったようです。
観音堂にて
東の方に見えているのは厚木市内のようでした。

この寺の立地している場所が丹沢山地の東側、標高284メートルの高台にあり、境内からは厚木の市内が見えていました。

長谷寺は飯山観音と呼ばれ、縁結びの観音様として多くの信仰を集めています。
長谷寺を出て、途中で昼食を摂り次の星谷寺に向かいました。

8番札所 星谷寺

1:20、座間駅近くにある星谷寺に到着。このお寺は市街地にあり、寺の前の交通量もかなりあります。しかし、お寺への参詣者は自分達だけで、境内は静かです。

少し小さめの仁王像。右が吽形像になっていました。
鐘座(打つ所)が一つという珍しい梵鐘です。

まず入り口の左右に立つ仁王像に迎えられ中に入ると左に鐘楼があり、ここに吊された梵鐘は撞座が一つしか無い珍しい物です。銘文には嘉禄三年(1227)とあり、歴史ある物ですが、綺麗で古さは感じません。
また銘文中に「源朝臣信綱」の名があり、これが鎌倉時代の武将、佐々木信綱であると言われ、佐々木氏の相模国在住を裏付ける物的資料として唯一のもので、日本史の上でも重要な資料とされています。梵鐘は国の重要文化財に指定されています。

星谷寺の七不思議

  1. 撞木が一つの梵鐘(普通は撞座が二つ、日本三奇鐘の一つ)
  2. 咲き分け散り椿(一本の椿より5通りの花が咲き、花弁が一枚ずつ分かれて落ちる)
  3. 観音草(別名、田村草。坂上田村麻呂がこの寺の境内にあったこの草で、東北遠征時奇病を治したといわれる)
  4. もみじの老木(幹が乳房のようになっている。現在は枯れている)
  5. 不断桜(開花期のほか年中どこかの枝に花をつけている)
  6. くすの木の化石(揺すると水の音がする)
  7. 星の井戸(昼でも星が見える)
  8. 鎌倉郡座間郷と宝篋印塔に書かれている(高座郡の真ん中に座間は所在している)

何れか一つを抜いたものが七不思議という事のようですが、そもそも七不思議に何故に八つある事が不思議なのだそうです。
何とも訳の分からない話です。

見事に色づいた銀杏
観音堂
本尊は聖観音菩薩
千社札ががかなりの数貼られていました。
昼でも星が映るという「星の井戸」

本堂前のイチョウは見事で、薄緑から黄色に綺麗なグラデーションが掛かっていました。でも、このイチョウには銀杏の実は着かないようです。雄木?

ここから、以前から一度行ってみたかった、白洲次郎・正子夫妻が住んでいた、町田にある「武相荘」に向かいます。

武相荘

星谷寺から一時間程かけて、ようやく武相荘に到着しました。ネット上で手に入れ印刷してきた駐車場の地図に間違いがあり、駐車場を見つけるのにえらい手間取ってしまいました。

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英国仕込みの紳士道をプリンシプルと呼び、日本で初めてジーンズを履き、近年「日本一カッコいい男」と呼ばれ、注目を浴びている真のリベラリスト白洲次郎。

戦前は近衞文麿首相のブレーン戦後は吉田茂首相の側近となって政治の中枢にいた昭和史の鍵を握る人物であるにも関わらず、その生涯は歴史の闇の中に埋もれています。

一方の白洲正子は随筆家として知られ、能に造詣が深く、青山二郎や小林秀雄の影響を受け骨董を愛し、日本の美についての随筆を多く残しています。彼女の男のような断定的に言い切る文章は、自分自身の自信によるものなのでしょうか。自分は好きな作家ですが、受け付けない人も居るのかも?

2009年にNHKドラマスペシャルで「白洲次郎」が放送され、そこで始めて知った人物でしたが、夫婦揃って変わり者だったようです。

武相荘はこの白洲夫妻が住んでいた家で、元は農家の建物だったようです。
武相荘の名の由来は、白洲次郎のユーモアから「武蔵の国と相模の国の境に位置する」事と「無愛想」を掛けたもので、敷地面積約2000坪。
館長は白洲夫妻の娘、牧山桂子さんが務めています。

こちらはレストラン
武相荘の文字は近衛内閣の司法大臣をつとめた風見章の揮毫。

内部は全て撮影禁止となっており、ここで紹介する事は出来ませんが、家の中にある蔵書の数は凄いです。
白洲正子の本に載っている書斎の写真はこの武相荘のゴチャゴチャした、正子の書斎だったようです。

普通は「水」の字だがここでは「寿」
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入館受付と武相荘グッズの販売。

最後の一寺は諦めて清水へ帰ります
時間は既に3:40。道路の混雑で予定よりもかなり遅れてしまいました。
あと1寺、次は弘明寺ですが、弘明寺は横浜の保土ケ谷の近く、かなり遠いです。もしかしたら行って行けない事も無いのかも知れませんが、万が一御朱印の受付時間に間に合わなかったら悲惨です。
最初から、無理なようだったら次回に回そう、としてあったので今日はこれで打ち止めにして清水に変える事にしました。

車も8:00までには返さなければならないので、遅くとも7:00までには清水に到着したいです。
ところが道路情報を見てみると、あちこち渋滞だらけで、沼津までの所要時間は2時間30分との電光掲示がでていました。
こりゃ、東名は止めようと言う事になり、小田原厚木道路、箱根新道、伊豆縦貫道と経由しようやく新東名の長泉沼津ICまで到着しました。
やはり東は道路が混みます。

次回からは何とか渋滞を逃れる事の出来るルート選びをしようかと思いますが、そんな道があるものなのか?

ようやく坂東再開第1回が終了

何とか坂東巡礼が再開できました。とは言ってもまだ3寺を廻っただけで、合計10寺クリヤー。まぁ慌てずにノンビリ観光しながらの巡礼旅で行ければと思います。
運転手さんも、混んだ道路ばかりで本当に疲れた事と思います。
お疲れ様でした。


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