旧身延道ウォーク  2023年7月7日

久しぶりの更新 まずは身延道ウォークから

このブログの更新が春以来止まってしまっています。というのも3年程前から、以前発行していたミニコミ誌を復刊させたためにこれに割かれる時間がべらぼうに多く、なかなかブログ更新の時間がとれないのが一番の原因なのです。
このミニコミ誌は2000年から10年間仲間数人と一緒に発行してきましたが、これも2010年第52号で休刊となっていました。これを何とかキリの良い100号まで出したいと思い、一人で始めたミニコミ誌の復刊でした。
そんな訳で、このブログの最終記事は昨年春の花桃見学になってしまい、そろそろ再びの春が訪れてしまいます。
何とか残しておきたい事もあるので、それだけでも記事を上げておこうと新年7日目にして思い立ちました。
昨年の出来事の中で残しておきたい記事。

1)旧身延道ウォーキング 宍原宿から万沢宿
2)国宝十一面観音巡礼
3)秋の甲斐を廻る
宍原から十島駅まで

まずは旧身延道ウォークからです。
これも歩いたのは昨年の7月で、既に記憶も薄れがちです。
身延に通じる街道は富士川町から富士川沿いに北上するルートと興津宿から上がるルートの2本がありますが、自分達が歩いたのは後者の方で、まずは興津からではなく、宍原宿からスタートしました。
スタート地点に立つのもそれほど簡単な事では無く、直通のバスなど有りません。また、ゴールしてもスタート地点の宍原宿まで戻る交通機関はないので、宍原宿までは車で行くわけにも生きません。

宍原車庫に到着

そこで、帰りは身延線の十島駅からJRを利用して興津まで戻る事にしました。家からは車でJR興津駅近くの駐車場まで行き、そこからは静鉄バスで但沼まで行きます。ここから先はコミュニティバスで宍原車庫まで行って、そこでようやくスタート出来ました。時間は既に9:30を過ぎています。

鹿田神社

鹿田神社

スタートしてすぐの所に石段があり石段の先には鹿田神社があります。建角身命(たけつぬみのみこと)を祭神とする神社で狩猟神のようです。創建は587年となっていましたからかなり古い歴史を持った神社のようです。元々はもっと山の中に祀られていたようですが、江戸時代の明暦4年、現在の場所に遷宮され、その後明治に入り明治8年、正式な社格を得ています。
鹿田神社から200m程進むと左に入っていく山道があります。入り口には「身延道 長峰三里」と書かれた立派な説明看板がありました。

長峰三里

長峰三里

この説明によれば宍原宿から万沢宿までの3里は身延道の中でも一番の難所と言われたところで、万沢宿までの3里は特別に「長峰三里」と呼ばれていたようです。
今回の自分達の身延道ウォークもこの長峰三里を歩くことになり、初回から(続くのかどうか?)一番の難所となってしまいました。
この脇道に入っても農道を進む為にそれ程の急傾斜ではなく思ったほど大変ではないようです。街道が整備されているのか?通行可能か?という心配はありましたが、今のところはそれなりに草刈りもされ、草を押し分けて進む事も無さそうです。
今日は7月7日。時期が時期だけに暑いです。
それでも林の中ですから強い日差しはなく、炎天よりは遙かに涼しかったのでしょう。
高度を稼いでからはずっと尾根歩きになり、多少のアップダウンがある程度で、想像していたよりは楽な山歩きです。

しかし、スタートから30分ほどのところで痛恨のミスコース。気がつかずに数分進んでしまい、ここで15分ほどのロスタイムが生まれましたが、今回の街道歩きは歩く距離もさほどないので、この程度の時間の無駄は問題無いでしょう。

県道に出ました。

スタートから1時間半程で下り始め、舗装路に出ました。地図を見ると県道192号線のようです。右に少し進めば国道52号線に出ます。
最初の計画ではここからは県道を左(西方向)に進み、後山や古住田を抜けて行く予定でした。しかしよく見ると県道の反対側には山道を行く身延道の標識があります。正式な身延道は山道を行くのが本道なのですが、果たして通る事が出来るのでしょうか?
ネット上で事前に調べては来ましたが、この山道についての情報は見つかりませんでした。
もし途中で通る事が出来なくなってしまったら、ここまで戻ってこなければなりません。さて、どうしようか?
同行者と相談の結果、この山道を行く事にしました。
山道は綺麗に整備されています。それほどの急坂もなく、美林ともいえる森林を進みます。途中に鞍打場と書かれた看板がありました。

鞍打場

鞍打場
お題目の書かれた石塔

天正10年、甲斐の武田を討つ為に身延道を上がってきた徳川、織田の連合軍は武田の宍原砦を落とした後、ここで一旦大休止し隊列を整えてこの先の白鳥山城を攻め落としています。その後は万沢から身延、さらには甲府と攻め上がってついに武田を討ち滅ぼしたという故事からこの辺り一帯を鞍打ち場としてその名を今に伝えている場所との事でした。

山ヒル

時間を見ると既に12時を過ぎています。道理で腹も減るはず。
休める場所を探して昼食にしました。と言ってもコンビニオニギリです。
これだけ歩けばどんな物でも美味しいものです。
しかし、おにぎりを頬ばりながら足下を見ると、
ギョェーーーーーーー!!

血をタップリ吸って丸まる太った山ヒル

足首に靴下の上から山ヒルが数匹食らいついています。もう片方の足を見るとこちらにもやはり数匹の山ヒルが食らいついていました。
これを引き剥がそうとしてもけっこう食いついている力が強く、早々簡単に離れてはくれませんでした。
何とか両足、十数匹の山ヒルを引き剥がしましたが、噛まれた所からは出血していてタラタラと血が流れていて、これが見るからにサラサラの血です。
それもその筈、山ヒルは食らいついた時に人間の血液を固めないでサラサラにする「ヒルジン」という物質を注入するらしく、おまけにこの物質には人間に感づかれないようにする、麻酔剤のような働きもあるようで、そのために目で確認するまでは全く気づかれずに悠々と人様の血を吸えるのだとか。
その後も、この出血が止まらず、結局これはその夜まで続きました。酷い場合には出血が数日続く事もあるというから凄いものです。
どうやら、足首あたりまで草が茂っていたところでたかられたようです。となると先ほどミスコースして進んだ辺りなのかもしれません。ナメクジのような山ヒルなのですが、その移動速度は意外に速く1分間に1m程も移動するといいます。
恐るべき、山ヒル!!

血に染まる靴下

そうそうに出発です。
10分少々下ると、境川沿いの県道192号線に出ました。
ここからは2,3分で国道52号線に出ました。
境川に架かる橋から下流を見ると、大きな岩の上に石碑が建っています。距離があるので文字までは分かりませんが、多分日蓮宗のお題目でも書かれているのでしょう。これまではここも何回となく通っていましたが、車ではこうした物に気がつくこともありませんでした。

国道52号線に出ました。
川の中の岩の上に石塔がありました。

炎天の国道52号を進む

ここからは暫く国道を上ります。
峠までは1Km程度の緩い傾斜なのですが、暑いうえに横を車が通過するので、尚更暑く感じてしまいます。
峠のトンネル手前で国道を離れて旧道に入り、トンネルは通らずに進みます。上がりきったところで左への分岐がありました。どうやらここを左へ進むのが正解だったようです。

国道歩き
国道を離れて旧道へ入ります

しかし、ここまで来れば何処を通っても似たようなもの。少しくらいのミスは気にしません。
旧道から再び国道52号に出て、少し先から脇道に入って万沢の町に下っていきます。
午後1:42 万沢の中心部に入りました。

万沢口留番所跡
何十年ぶりで通った万沢町のメイン通り。

昔の国道52号線になる街道に、「万沢口留番所跡」の案内看板がありました。
万沢宿は甲斐と駿河を結ぶ街道の要衝であることから、ここに番所(関所)が置かれていました。
現在の52号線が出来るまでは何回となく通った万沢町内のかつての52号線を通るのは何十年ぶりの事です。
町を抜けたところで最後の一休み。
ナント、同行の腹にここまで食らいついていた山ヒルが一匹いたようです。彼の白色のTシャツの腹は血で真っ赤になり、通り魔にでも刺されたようです。
この出血もなかなか止まらないようで、かなり苦労していました。

十島駅到着

ゴールの身延線十島駅着は午後2時17分。宍原スタートから丁度4時間ほどでゴールすることが出来ました。
ここからは身延線で富士まで行き、富士からは東海道線で興津駅まで戻ります。
他の乗客は、あの血に染まった腹をどう思ってみていたのでしょう?

半年近くも前の事なので、思い出しながらの道中記になりました。折角一区間歩いたのですから、出来るものなら、興津から身延まで、また身延から韮崎までの旧身延道全線を歩き通してみたいものです。

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