坂東観音巡礼第3回

坂東巡礼第2回は埼玉県の3寺

昨年11月末に初回(以前からだと2回目)となる坂東巡礼から約2ヶ月。今回は埼玉県の3寺を参詣してきました。

今になってではありますが、西国巡礼は徳道上人が始め、一時消えてしまった観音信仰を再び復活させたのは西国巡礼中興の祖となった花山法皇でした。
では、この坂東観音巡礼は誰がいつ頃始めたものなのか?
これまで考えたこともありませんでした。
坂東巡礼の歴史はガイドブックでは

平安時代に西国で始まった三十三観音巡礼が坂東において成立したのは鎌倉幕府の成立がきっかけだといわれています。源頼朝は熱心な観音信者でした。源実朝もしばしば観音信仰を行った事が知られていることから、実朝が西国の霊場を模範として札所を制定したとも伝えられています。
坂東の一番札所が鎌倉の杉本寺であることや、鎌倉、相模、武蔵に札所が多いことから納得のいく説となっています。

と書かれています。

秩父にしても坂東にしてもその模範となったのは花山法皇が確立させた西国巡礼となっているようでした。

さて、第2回目、清水出発は渋滞も見越して5:30出発。
ところが新東名高速は事故で通行止め、仕方なく清水いはらICでUターンし東名高速を行くことにしました。
ここでふたたびのところが、です。

こちらも沼津IC辺りの工事で大渋滞。愛鷹のスマートICで降り、新東名の「沼津・長泉IC」から再び高速道路に入り、ようやく通常モードに復帰しました。
しかし、この間のロスタイムは1時間程になり、かなり時間を無駄にしてしまいました。

それでも、今回の計画は時間にはかなりの余裕を持たせてありますから、何とかなることでしょう。
この後は順調でした。

海老名JCTから圏央道に入り、鶴ヶ島JCTで関越自動車道に分岐、その先の東松山ICで高速を降り、そこからは一般道を行田に向かいます。

途中で4年前に歩いた荒川土手の中山道を越えている筈ですが、確認は出来ませんでした。
程なく今日最初の目的地である「忍城趾」に到着です。

忍城趾

戦国時代はこのあたりを支配した成田氏の居城となっていましたが、武蔵の国はこの当時小田原の北条氏の配下です。

秀吉の小田原攻めの時には北条氏に味方していた成田氏の忍城も攻撃を受けます。
忍城を攻めたのは石田三成でしたが、彼は秀吉の命により利根川の流れを利用した水攻めを行いました。

忍城に立て篭もった成田氏は善戦し、結局小田原城が陥落するまで持ち堪えたのは忍城ただ一つだったと言います。

この戦いで三成が陣を敷いたのは現在の丸墓山古墳の頂上部で、水攻めの堰もこの古墳から南北に延びています。

この時三成が築いた堰は石田堤と呼ばれ、総延長は28Km
これをたったの5日間で完成させたというのですから驚きます。この石田堤は現在でもその一部が残っているようです。

水攻めの資料を見ていて、この堤が現在はどの位置になるのかと思い、堤の位置を重ねてみたら面白い事に気がつきました。

丸墓山古墳から南に延びた堤は、現在の高崎線に当たり、そこからは驚く程正確に高崎線の線路沿いに熊ヶ谷の方向に延びています

明治時代になり高崎線敷設時には荒川の氾濫なども予想し、少しでも高い所に線路を敷設した結果なのでしょう。

石田堤の概要

高いといっても2、3mと僅かな差であることを考えると、もしかしたら三成が築いた堤の痕跡だったのかもしれません。
掲載した図の水色の線が「石田堤」、黒と青の破線が高崎線になります。

当時の忍城の様子は、この城を訪ねた連歌師の宗長の日記によれば、城の周囲は四方沼地であったと書かれている事から、まさに天然の沼地の中に島状に残る丘や自然堤防を巧みに利用して作られていたようです。

この戦いの後、忍城は関東に入国した家康の持ち城となり、その後も主を代えながら明治まで残りました。

戊辰戦争の戦火からも逃れ生き残った忍城でしたが、明治に入り、城は無用の長物となり、結局、明治6年に競売にかけられ、かつての面影は土塁を残すだけとなってしまいました。

最近では、2012年に創られた野村萬斎主演の映画「のぼうの城」で一躍知られるようになりました。

藩校進修館の表門を移築したものと伝わります。
行田市郷土博物館

かつての沼地は埋め立てられ、現在は本丸跡に「行田市郷土博物館」が建設されています。
ただ、この博物館は忍城に特化した博物館ではなく、行田市全体を紹介した資料が主な展示物となっている為、忍城そのものの資料は一部だけとなっていました。

忍城趾の現在のディオラマ。
三階櫓から富士山が見えていました。
鐘楼
高麗門と三階櫓

城趾内には当時の遺構はそれほど残ってはいませんが、かつて忍城にあった櫓をモデルに再建された三階櫓が建てられています。

高麗門
三階櫓

忍城趾から元来た道を戻り、11番札所の安楽寺へ向かいます。
行田からはそれ程離れてもいないので30分程で安楽寺に到着です。

11番札所 安楽寺(吉見観音)

第9番慈光寺、第10番正法寺とともに比企三山ともいわれている安楽寺は、奈良時代の僧行基が聖観音像を安置したのに始まるとされ、平安時代初期の武将坂上田村麻呂が堂宇を建立したと伝えられます。
一体、行基が絡む寺は全国に幾つあるのでしょう。

石造りの仁王(阿形像)
青面金剛明王像(庚申塚)

駐車場から参道を進むと左右に珍しい石造りの仁王が睨んでいます。
石造りの仁王像は何処かで見た事があります。
記憶を辿ると2016年、秩父巡礼の最終回で参詣した観音院に、石造りとしては国内最大という仁王像がありました
石造りの仁王はあの時以来のようです。

仁王像に睨まれながら先に進むと参道沿いに何やら古い石仏があります。
よく見てみると一面六臂の本体の上に月と太陽。足下には鶏がいて、最下段の台の部分には見ざる、言わざる、聞かざる、の三猿が配置され、基本通りの青面金剛明王像です。
清水地区で行われる「お日待ち」の祭りも、元々はこの庚申信仰そのものだったと考えられます。

青面金剛は庚申信仰の本尊で、60年に一度やってくる庚申の年にこのような庚申塚を創る習慣が長い間続いてきました。最近では昭和55年が庚申の年に当たっており、この年には自分の住む地区でも庚申塚が作られています。

この庚申塚、江戸末期まではこのような青面金剛像が多かったようです。しかし、明治以降は「庚申塚」とか「庚申塔」と書かれただけの塚が一般的になってきたといいます。

境内までの高低差はあまり無さそうです。
大きくはありませんが、落ち着いた雰囲気の綺麗なお寺です。

まだ新しそうな仁王像が安置された山門を潜って境内に入ります。
それほど大きな本堂ではありませんが、全体に綺麗に整備されたいい雰囲気のお寺です。

形に安定感があります。
初層だけ大きく作られている。

本堂右に建つ三重塔は今から約380年前の寛永年間に杲鏡法印によって建築されたもので、本堂・三重塔・仁王門・大仏等の中では最も古いものとなっています。
これまでにもしっかりした補修がされてきたのか、まだ綺麗なものです。
この塔は基壇は無く、心柱は地から立つのではなく、一階天井部分の梁で支えられています。

屋根は以前は柿葺あったが、現在は銅板葺に改められています。
一階部分の面積は高さに比較して非常に大きく、また各層の面積のバランスも程よく、これに加え軒の出が非常に深いので塔全体にどっしりとした安定感を感じさせる造りとなっています。

本堂
廻りに施された彫刻が見事です。

そろそろ昼飯時。腹も減ってきました。

吉見百穴

墓と思うと異様な雰囲気です。

吉見百穴は安楽寺からは目と鼻の先。外からでも十分よく見えるので、入場券を買って入らなくても良いように感じてしまいます。
でも、まずは昼飯です。
前に食事処があったので、ここで昼食を摂ってから百穴の見学をすることにしました。
このうどん屋さん、観光地の食堂にしてはそこそこ旨かったです。
腹も膨れたところで百穴の見学です。

ところで、これは「ひゃっけつ」と読むのか「ひゃくあな」と読むのか?
どちらでも良いようですが、殆どの表記は「よしみひゃくあな」となっています。

今は一部しか登ることが出来ません。
ここは棺が二つ入っていたようです。

古墳時代後期の横穴墓群の遺跡ですが、これまでにはいろいろな論争が繰り広げられてきたようです。
論争の主なものは、住居か墓か?といったものでした。

住居としたら少し小さすぎるのですが、コビトのような日本の先住民族、コロポックルの住居として作られたものではないかといった説もありました
しかし現在では集合墳墓という説が定説になっています。

地下軍需工場跡

以前は奥まで入る事が出来たようですが今は入り口だけ。
奥は広そうです。

太平洋戦争中、この岩山の地下に中島飛行機の地下軍需工場を建設するため、岩山の最下部に大きなトンネルが碁盤の目状に掘られ、その出入口として吉見百穴には3か所の坑口が作られました。
以前は中にも入ることが出来たようですが、現在は柵が設けられ入り口部分までしか入れません。

ロケ地としての百穴

ロケ地としての需要は確かにありそうな雰囲気ですl

岩山の異様な外観や、素掘りのままの軍用トンネル跡などが、悪の秘密結社の基地といった雰囲気に合っているのか、仮面ライダーをはじめとする等身大ヒーロー番組や、ウルトラマンシリーズなどの実写特撮番組のロケ地として、よく使われてきています。

10番札所 正法寺

安楽寺の仁王像と似ています。こちらはガラスで守られていました。

吉見百穴から西に40分ほど走ると10番札所の正法寺に到着です。読みは「しょうぼうじ」と「ほ」が濁ります。

先ほどの安楽寺もこの正法寺も山号は「いわ殿山」。ただ、この「いわ」の部分が安楽寺は「岩殿山」に対し、正法寺は「磐殿山」。

仁王像

山号も似ていますが、山門に安置された仁王像もこれまた安楽寺の山門の仁王像とそっくりです。作られたのも最近なのだと思ったら大間違い。

吽形像
阿形像

元々は運慶作と伝わる仁王像がありましたが、平成4年の解体修理の時、棟札がでて、運慶作のものは江戸時代に焼失し、現在の仁王像は文化年間に再建されたものと判明しました。
現在の仁王像は、解体修理時に漆を塗りなおされ、その為に新しく見えるようです。

境内まで上がるのは結構キツそうです。
やっと境内まで上がりました。

境内までは少々キツイ石段がありましたが、それ程長くはないので何とか境内まで上がりきりました。

大銀杏

境内で目立つのはこの大銀杏。

境内でまず目に入るのはイチョウの巨木です。推定樹齢は700年を越えているとか。
周囲は11mあり、埼玉県内でも最大級の大きさです。
江戸時代には養老木と呼ばれ、多くの女性に安産・子育守護の対象として信仰されました。

四国遍路の写本尊像

廻りにあんちされた小さな石仏群
全て揃っているのなら188体になります。

境内は廻りを切り立った断崖に囲まれています。
その一部を削って西国、秩父、坂東の100観音と四国遍路の石造りの小さな写し本尊が祀られています。
両方が揃っているのだとしたら188体の写し本尊があることになりますが.....

大きさの割に高さがあります。
廻りの彫刻が素晴らしい!

本堂である観音堂は大きさの割に高さがあり迫力があります。また、廻りに施された彫り物も見事なものでした。

9番 慈光寺

山門までの参道くらいもう少し整備してほしいものです。

駐車場から山門(といえるものかどうか?)までは荒れた山道のような参道を行きます。もう少し参道くらいは綺麗にしておいたらどうかとも思うが、手が足りないのだろうか。

境内に入りまず目に入るのは大きな「多羅葉」
こちらは六地蔵でしょうか。

小さな山門を潜って境内に入るとまず目に入るのは葉書の語源となった葉書の木とも呼ばれる「多羅陽樹」の巨木
実際の大きさとしたらそれ程の大きさでも無いのですが、慈覚大師が植えたと伝わりますからそれが史実ならば樹齢は1200年を越えています
確かに多羅陽樹としたら太いけど、実際はどれほどの樹齢なのでしょう。

観音堂

慈光寺の本尊は十一面千手千眼観音で、これはずっと上の方にある観音堂に安置されています。観音霊場巡りをしていて、本尊を拝まずに帰るのも少々気が引けます。
そこで、どうせこれが今日最後、後は無し!と思い上がってみました。然程急な石段でも無し、楽勝と思っていたら、これが一苦労。ヒーヒーしながらやっとこさ観音堂まで上がりました。

ヒーヒーしながらやっと観音堂の前に出ました。

丁度、坂東巡礼中の団体さんに鉢合わせとなり、観音堂の中に入るのは諦め、外から何とか拝んでヨシとしました。
この団体さんが上がってきたのは自分達が上がってきた石段とは違い、駐車場から観音堂まで一気に上がって来る物凄く急な石段でした。

団体さんの巡礼者で堂内は満員状態。
左甚五郎作と伝わる「夜荒らしの名馬」

自分よりは遙かに年配の皆さんでしたが、脱帽です。
これも信仰の力なのでしょうか。

清水へ

これで今回の巡礼旅は終了です。前回とは違い帰りも渋滞無しで帰って来ることが出来ました。
行程も、スタート時の渋滞で遅れが出たものの、その後は順調に進み最後まで最初の1時間遅れを何とか最後まで保つことが出来、7:00pm 清水に無事到着でした。
この後の反省会は前回同様おおいに盛り上がった事は言うまでもありません。
これまでに茨城の2寺を含めて13寺をクリヤー。
まだまだ先は長いです。


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