旧街道歩きを何年か続けているので脚力だけは維持しなければ!と、毎日の散歩で5Kから7K程歩くようにしています。
コースは変えるのですが最近は東海道興津宿の古刹「清見寺」まで行く事が多くなっています。ここまで行くと往復では6.5Km程になり帰ってくるともうヘトヘト。
今日は時間も早かったので境内まで上がり写真を撮ってみました。実は我が家もお寺は清見寺で、こちらには大変お世話になっています。
この清見寺、山号は巨甕山といい、これは海から見ると清見寺の裏山が大きな亀に見える事から付けられた山号と言います。
東海道から石段を登ると総門があり、門には朝鮮通信使 玄徳潤(ヒョンドギュン)の筆による「東海名区」の扁額が掛けられています。
総門をくぐるとその先は切り通しになって線路が敷かれており、境内をJRが走るその光景は全国でも珍しいものとなっています。今でこそ埋め立てが進み清見寺から海まではかなりの距離がありますが、東海道線が敷設された当時は寺の前は海岸だったために線路を通す余裕もなく、その為に境内の一部が切り通しになってしまいました。
寺の境内に入るにはもう少し線路に沿って上がり跨線橋を渡らなくてはなりません。
跨線橋を渡って目の前にあるのが山門です。

境内に入って振り向くと、山門の向こうに興津埠頭に停泊している地球深部探査船「ちきゅう」が見えていました。

山門をくぐって真っ正面にあるのは仏殿でその左手にはところ狭しと五百羅漢像が並んでいます。

またこの奥、裏手の墓地の奥にはこの地で病死した琉球具志頭王子の墓所があり、ここには毎年沖縄から墓参に来ていると聞きました。
山門の先で右に進むと左手にあるのが「咸臨丸碑」です。
明治維新では榎本武揚が率いる旧幕臣は函館に向かい戦う予定でしたが、途中で離れてしまった咸臨丸は清水港に流れ着き、官軍の砲撃を受けて大勢の死者が出ました。
後にこの死を悼んで建てられたのがこの碑で、榎本武揚筆による史記の一節が刻まれています。
その先にあるのが家康お手植えの「臥龍梅」、そして右手にあるのは秀吉が小田原攻めの時に持っていったと言う梵鐘の架かる鐘楼で先年修理が行われました。
本堂の裏側には家康が人質時代に勉強したという小さな部屋が当時のままの状態?で残されており、また書院の前から眺める事の出来る庭園は国の史跡に指定されています。
この池に架かる石橋はもともとは芭蕉の句碑で、何故か碑面が下を向いている為に残念ながら文字は見えません。
庫裡は「潮音閣」と名付けられていて海側の外壁には扁額が掛かっています。海が埋め立てられる以前、この二階から眺める景色はさぞかし見事なものだったのでしょう。
帰りはこのまま東端の石段を下ります。こちらは踏切を渡り東海道に出ますが、そこにある何の変哲もない石はかつて此所にあった清見関の礎石なのです。
いつも見慣れた清見寺ですが改めて境内を歩き、これを文章にしようとした時、清見寺に残る史跡の数に改めて気付かされました。
我が家の本家の御先祖は、この関の役人を務めていたらしく、信長の時代になり関所が撤廃された為、リストラに遭い失職したと伝わっています。