西国巡礼第4回 1日目

1日目 2018.12.15

5月に始まった西国巡礼も4回目。今回は大阪、京都、滋賀、奈良、と4県をかけずり回り番外も含む8札所を廻ってきました。
丁度この時期関西は二日間とも寒い日との予報でしたが、思っていたほどの寒さでもなく助かりました。
清水を5時に出て、高速道路を西へ、西へ。名神高速大山崎JCからは京都縦貫道に入り、これを長岡京ICで降りて丹波街道を北に向かいます。

この辺りには平城京から平安京に遷都されるまでの10年程の間、長岡京がおかれていました

大原野で丹波街道を離れ西の山に向かい、急坂を登れば善峯寺の駐車場です。

尚、今回も一秀翁から句を頂いたので掲載しておきます。

20番 善峯寺

 

堂々たる山門です。

善峯寺は11世紀初頭の長元3年(1030)、源算上人の建立によるものです。上人が初めてこの地を選んだ時、山が険しく苦労していると、猪が沢山現れて踏みならしたという言い伝えがあります。

来年の干支も亥ですから、このタイミングで来た事も何かの縁かもしれません。

駐車場から少し歩けば、組み物の木口が白く塗られた、立派な山門があります。
善峯寺は応仁の乱でその伽藍の殆どを焼失してしまいました。現在の伽藍は五代将軍綱吉の生母、桂昌院の寄進によって復興されたものです。
この山門の中に安置されている仁王像は寺伝によれば快慶作と伝えられているようですが・・・・。

本堂

境内全体が回遊式庭園になっていて、参道に沿って一巡できるようになっています。以前来た時は桜のシーズンで枝垂れサクラが綺麗でした。アジサイや秋の紅葉もさぞかし綺麗なことでしょう。
でも、今のこの時期は何もありません。

遊龍の松

ここでよく知られているのは推定樹齢600年といわれる五葉松「遊龍の松で、この松は高さは2m余しかないのに、横方向には40m余も伸びています。かつては横54mもあったようですが、残念ながら松食い虫の被害で一部を切られてしまい短くなってしまいました。
銘木というよりこれは奇木といった部類のものかもしれません。

多宝塔

古刹にて 見遣りし古都や 冬ざるる 一秀

折角なので奥の院まで上がってみました。ここにある薬師堂には薬師如来が祀られていて、八百屋の娘お玉から将軍の生母まで昇りつめた桂昌院にあやかり、出世薬師と呼ばれています。
ここからは京都市街地のほぼ全域を眺める事が出来ました。

十輪寺

善峯寺に上がって来る途中にある十輪寺には花山院が西国巡礼に持仏として背負われた観音様があり、西国巡礼で善峯に参った時には必ずこの寺に寄る習わしがあるようです。しかし、今回は時間も無くパスしました。
十輪寺には在原業平の墓もあるようなので、次回には、是非寄ってみたいお寺です。

 大和路や 無人店舗の 富有柿  一秀

穴太寺

山を下り京都縦貫自動車道に乗れば穴太寺のある亀岡には短時間で到着です。そこから狭い道を苦労しながら進み、ようやく穴太寺に到着しました。
穴太寺は石段もなく全ての伽藍が同じ高さにあるので西国霊場の中ではその参詣の安易さという点では筆頭のお寺かも知れません。

千社札だらけの本堂

心身を病みつ 馬齢重ね来て
    今日は寝釈迦の 何処ぞ撫でらむ  一秀

場違いな程立派な多宝塔

侘びた感じがいい雰囲気の山門をくぐると正面に本堂。しかしそれより境内で一番目立つのがやたらと立派な多宝塔です。

以前来た時には書院の方から入って受付を済ませ、書院と本堂を結ぶ回廊から本堂に入ったのですが、今は本堂の前に拝観の受付があり、そこで御朱印も頂きました。
書院と多宝塔の間にある庭園が冬の間は拝観停止となっている為の事かも知れません。

涅槃釈迦像
多宝塔

本尊の薬師如来と聖観音は普段開帳されていませんが、その脇に布団を掛けられた涅槃釈迦像があります。この布団を捲って自分の悪いところと同じ所を撫でてやると治癒すると伝えられています。

参詣する人達は随分と患っているところが多いらしく、お釈迦さんはピカピカに光っていました。

光秀=天海

この亀岡には明智光秀が築城した亀岡城があります。無論現在は城址なのですが、この築城に際し、穴太寺の木材、石材をことごとく持って行かれ、寺はかなり荒廃してしまった時期もあったようです。

その後、ある程度の復興はしましたが、江戸時代、伽藍をほぼ全焼しています。この時は日光の輪王寺より寄進を受け、持ち直したといいます。

その後、光秀は琵琶湖畔の坂本に移ります。この時に穴太から連れて行った石工集団は穴太衆と呼ばれ、彼らの石垣の積み方は穴太積みと言われました。

時は本能寺の変へと進んでいきます。
光秀の三日天下と言われるように、本能寺の変から僅か11日後の山崎の戦いで秀吉に破れ、その一生を終えています。

山崎の戦いで亡くなったとされる光秀なのですが、昔から 光秀 = 南光坊天海 といった説があります。
自分はこうした話は割と簡単に信じてしまいます。そこで光秀=天海 説の検証です。

天海は家康の側近として仕えていた参謀役ともいえる僧でした。そして天海は日光輪王寺の住職にもなっています
日光東照宮も彼の指示で造営されました。

輪王寺から穴太寺への寄進(時代は天海以降にはなっています)も、もし光秀=天海ならば迷惑を掛けた穴太寺への恩返しだったのかもしれません。

中禅寺湖の近くにあるロープウェイで上がったところは明智平。これも何か意味があるのかも?

日光東照宮には桔梗紋が使われていて、光秀もやはり桔梗紋。

一番不思議に思うのは山崎の戦いで、負けた光秀は山中を10人程の家臣と逃げている時、一人の農兵に竹槍で殺されたと言われています。
農兵一人で家臣10人が護っていた光秀を刺し殺した? そんな馬鹿な!

その間、廻りの家臣は何をしていたのでしょう。
そして、もっと不思議なのは、この光秀の首が、秀吉の所に届けられ、首の検証が行われた事です。この農兵が首をとって差し出したのか?

山崎の戦いは本能寺の変(6月2日)の11日後6月13日(新暦では7月)でしたから、死後3日経った首はかなり傷んでいたはずで、皮膚はほぼ無かったと言います。こうなると誰の首なのか分かるはずもありません。

光秀の死には多くの謎があり、そのような事からいろいろな憶測が出てくる訳で、昔から死なせてしまうに惜しい人物には、この「xxxは実は生きていた!」といった伝説が生まれるものです。

しかし、眉唾な話が多い中でも、この光秀生存説には、偶然にしてもあまりにも天海との共通点が多く、納得してしまうところがあります。
もし、そうなのだとしたら、本能寺の変の黒幕は家康だったのでしょうか?

勝尾寺

穴太寺から山の中を南に下がり、箕面市にある勝尾寺に向かいます。山の中を抜け、峠を越えて、1時間ほどで勝尾寺に到着しました。

前回3回目の西国巡礼でも、この山門前までは来たのですが、あまりの混雑に諦めてこの時はパスしました。

紅葉の勝尾寺界隈は大阪人には高い人気があるようです。

山門を潜ると弁天池に掛かる橋があります。以前来た時にはこの橋の下から霧が出る仕掛けがあり、この霧が池に漂いいい雰囲気を醸し出していましたが、今回は動いていませんでした。冬の間は止めているのでしょうか。

御朱印を頂ける総合受付所は境内を上に上がった本堂の横なので、そこまでは上がらなくてはなりません。

勝たねども 負けぬ人生勝尾寺
   子子孫孫の 安けきことを  一秀

境内にはずっと祈祷のお経がスピーカーを通して聞こえています。この音が半端なく、もの凄く大きくて、境内どころか山全体に響いているのです。
このスピーカーは至るところに設置されていて、流れるのは祈祷の為のお経なので尚更迫力があります。

勝ちダルマのお寺と言われる勝尾寺だけに、境内にはダルマが溢れています。

中でも沢山あるのがおみくじの勝ちダルマ。
境内にはいったい幾つのダルマがあるのでしょう。

おみくじの勝ちダルマがいたるところに

本堂からもう少し上に登ったところにある二階堂には、四国に流されていた法然が赦免され、京に入る前に3年以上もここに逗留したという歴史を持つ建物です。

法然が四国に流されていたのは1年にも満たない期間でしたから、その何倍もの時間をここ勝尾寺で過ごしていました。

勝尾寺の元は8世紀半ばに開かれた弥勒寺です。これが平安時代になって寺名は現在の勝尾寺に改称されています。

この勝尾寺という寺号は第6代座主の行巡上人が清和天皇の病気平癒させた故事に因むものです。

病気になった清和天皇が勅使を出し、病気平癒の祈祷の為に上人を宮中に呼ぼうとしたところ、上人は「特別な修行を積んでいる時期でもあり山を出る訳にはいかない!」と断りました。
これを聞いた勅使が怒りをあらわにしたところ、上人は1丈ほど飛び上がってそこに留まったのです。

勅使がこの事を報告すると天皇は山を出ず、そこで祈祷するように伝えたといいます。

やがて病気が回復した天皇は喜び、寺の祈願力には朝廷の権力も及ばなかった事から、王に勝つ寺、勝王寺の寺号を贈りました。しかし、あまりに畏れ多いので勝尾寺にしたと伝わります。

その後は頼朝、足利氏、豊臣氏など各時代の覇者から荘園の寄進を受けると共に、戦勝祈願を勝ち運信仰の寺として信仰を集めました

本堂には白檀の十一面観音菩薩像が祀られていますが、これは秘仏となっています。

総持寺

石段は通行不可でした

勝尾寺から山を降り、国道171号線を東に進みJR総持寺駅の近くにある22番札所の総持寺に到着。

明るい石段の上に朱色の立派な山門があります。が、何故かこの石段は通行不可となっていて迂回路から境内に入りました。

入って、この通行不可の理由が分かりました。
総持寺は今年6月に起きた大阪府北部地震の震央から僅か数キロしか離れていない為に、地震の被害もかなり受け、その為の修復工事中だったようです。

屋根瓦が無くなっています

本堂の屋根瓦も崩れてしまっており、本堂内の説明によれば堂内の被害もかなりあったようでした。
しかし、建物被害は本堂だけだったらしく、他の堂宇は無事のようでした。
やはり最近建てられた新しい建物はそれなりの耐震構造になっているという事なのでしょうか。

 晩鐘の 余韻のありて 山眠る  一秀

この総持寺は西国の33カ所の札所の中でも特徴のないお寺の筆頭と思えます。何とも特徴が無いのです。

ただ、市街地にあるお寺なのですが、境内に入ると別世界のような静けさなのです。地元の人達にとっても賑やかな都会の中にあるオアシスのような癒やしの空間なのかもしれません。

南千里のホテルへ

総持寺を今日の最終として、南千里のホテルに向かいます。千里なんて半世紀も前に来た「大阪万博」の時以来です。
これまでにも高速道路からは何度か大阪万博の象徴であった「太陽の塔」を見てはいましたが、これは通過するだけでした。
今回は南千里のホテル泊です。こんなところで呑みながら食事できる店なんてあるのか?と心配でしたが、数は少ないものの店はあり、夜はそこで大いに反省会が盛り上がりました。

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