西国巡礼第5回

京都市内5寺

昨年5月に始まった西国巡礼も今回で5回目。京都市内の5つのお寺だけなので日帰りで行く事になりました。

これまでは全て車での移動でしたが、京都市内の狭い所で駐車場を探しながら廻るのでは効率が悪すぎます。そこで今回は大津駅前に車を駐めて、そこからは公共交通機関を使う事になりました

今でこそ、歩く事なしに西国巡礼旅は出来ますが、その昔、歩いて巡礼するしか無い時代、一体どのような人達が西国の札所を巡礼したのでしょう。
百姓は農産物(主に米)の農作業があるから巡礼に出掛ける事は出来なかったでしょうし、商人も江戸時代の豪商ほどの余裕はなかったでしょう。

特に花山法皇が33ヵ所の寺を廻り、西国巡礼の現在の様式が出来上がった平安時代、裕福なのは藤原氏、またその後の平氏くらいのもので、それ以外は寺参りどころでは無かったのではないでしょうか?

そう考えると、この西国巡礼は誰の為のものだったのか?
皇族や貴族達の為の巡礼路だったのでしょうか?

江戸時代にはお伊勢参りに見られるようなお祭り騒ぎの旅もあったようですから、こうしたノリの西国巡礼もあったのかも知れません。

いずれにせよ、西国巡礼も初期の頃は、裕福な人達の為の信仰行事だったと思えます。

信仰心があるのかどうか分からない現在の巡礼者9人は、歩く距離最短コースでの京都5寺の楽々巡礼旅にいざ、スタートです。

頂法寺 六角堂

御詠歌:わが思う 心のうちは 六の角 ただ円かれと 祈るなりけり

後ろに見えるビルは代々頂法寺の住職を務めている華道家元の池坊

山科駅でJRから京都市営地下鉄に乗り換え、烏丸御池駅まで行き、地上に出れば六角堂はすぐ近くです。
六角堂へは今回と同じ「あんどん俱楽部」のメンバーで一昨年も訪れています。でもその時にはまだ西国巡礼の計画は無かったので西国の御朱印を頂く為に、再度の六角堂参詣になりました。

本堂前の柳も冬の今は葉を落として寒々しさを感じます。

ビルの谷間で窮屈そうな六角堂

本尊は如意輪観音ですが、拝観出来るのはお前立ちです。

聖徳太子によって創建された六角堂は、一般庶民の信仰を集め、現在でも市民が訪れる庶民信仰に支えられ賑わっています。
また、住職は代々華道家元 池坊が務め、いけばな発祥の地となっています。

鎌倉時代の初め、比叡山で修行していた親鸞は、建仁元年(1201)29歳の時、六角堂に百日参籠するという誓いを立てました。

参籠は、夜になると比叡山を下りて六角堂に籠もり、朝には山に戻る繰り返しだったといいます。そして95日目の暁に如意輪観音からお告げを受け、浄土真宗を開くきっかけを得ました

五木寛之著「親鸞」では六角堂で念仏を説いていた法然の偵察の命を受けた親鸞が比叡山から通うといった話になっていたような.....
この後親鸞は比叡山を下り、法然の元に就くようになりました。

本堂の裏手に回ると確かに六角です。

聖徳太子像を祀る太子堂

十六羅漢

一つだけ願いを聞いてくれるという「一言願い地蔵」。願いを聞いてやろうかどうしようかと悩んで頭を傾けているそうです。

正面から本堂の六角は見えませんが、裏に回ると確かに六角形の堂々とした本堂が確認できました。

現在の六角堂は廻りを大きなビルに囲まれて、ビルの谷間になってしまい随分と窮屈そうです。

これから先の4寺でどれほどの時間が掛かるのか分からないので、取りあえず御朱印と散華を頂き、先を急ぎます。

行願寺 革堂

御詠歌:花を見て いまは望みも革堂の 庭の千草も 盛りなるらん

先ほど下車した烏丸御池駅から一駅だけ先の丸太町駅まで地下鉄で行き地上に出るとそこは京都御苑のすぐ南西角。ここから真っ直ぐ東に歩いて行くと行願寺の山門前に出ました。

住宅街の中に埋もれてしまいそうな行願寺です。

開基の行円は仏門に入る前は狩猟を業としていましたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったと伝わります。行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も革堂と呼ばれました。

「本堂」の南側にある「宝物館」には行円上人が着ていたという鹿皮の衣が納められており、毎年1月に2日間だけ公開しているようですが、動物の皮を千年もの間、どのようにして保存してきたのか?

行願寺は西国の33ヵ所札所の中でも一番地味で静かなお寺なのかも知れません。
しかし、規模の小さい寺に似合わず本堂は歴史を感じる重厚な造りであり、西国札所の看板を背負うだけに、その重厚感はかなりのものです。
ここも六角堂同様、住宅地の中で、窮屈そうでした。

六波羅蜜寺

御詠歌:重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば

行願寺から東に向かい、鴨川を渡ったところにある京阪本線の神宮丸太町駅から清水五条駅までは一気に電車で移動

そこからは六波羅蜜寺まで歩きになります。出来れば高瀬川沿いに木屋町通りを歩いて行きたかったのですが、この先どれ程の時間が掛かるのかも分からないので、まずは予定の5寺を廻りきる事を最優先しました。

五条通りは混雑していたので裏道を通って六波羅蜜寺に向かいます。京都は裏通りの方がいろいろな発見もあって楽しいものです

これまでの2寺と同じように六波羅蜜寺も住宅街の一角にありました。
神社のような朱色の本堂が青空の天気の下で映えます。

寺号は仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来するようですが、この地を古来「六原」と称したことに由来するという説もあるようです。

空也上人が自ら彫ったと伝わる国宝・十一面観音像が本尊となっていますが、これは12年に一度、辰年に御開帳されるとの事。次の御開帳は5年後になります。

本堂裏にある宝物収蔵館の中には、空也と聞けば頭に浮かんでくる、口から6体の阿弥陀仏を吐き出している空也像があります。これは運慶の4男、康勝の作

これ以外にも立派な仏像が並び、これは六波羅蜜寺へ行ったなら、是非とも入館してみるべきでしょう。

「此附近 平氏六波羅第 六波羅探題府」

清水寺

御詠歌:松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん

六波羅蜜寺からは清水坂を登り清水寺に向かいます。

京都はシーズンオフの時期なのでしょうが、今はシーズンオン、オフ、関係なく1年中混み合っています。
清水坂もかなりの混雑ですが、その半分以上は外国人(殆ど中国からの観光客)のようです。

今、京都で着物を着ている人はその殆どは中国からの人達でしょう。

中学の修学旅行で初めて訪れた清水寺でしたが、それから何回着ている事か!

今、清水寺本堂は来年の東京オリンピックまでの竣工を目指し、檜皮葺屋根の葺き替え中です。

その為に、舞台もシートや足場で覆われ、あの迫力ある姿は一部しか見る事が出来なくなっています。

泰産寺 子安塔
音羽の滝


寺で聞いたところ、最近は雨漏りも酷い状態だったようです。
現在の工事が済めば、真新しい屋根に吹き替えられた本堂が姿を現す事でしょう。

奥の院からの本堂の姿は絵になります。しかし、この状況でシートに覆われた本堂を見ても仕方ないので、本堂横から音羽の滝に降りて、茶わん坂を下りました。

空いている茶わん坂を下りました。

今熊野観音寺

御詠歌:昔より 立つとも知らぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり

東大路通まで下り、時間があるようなら次の今熊野観音寺まで歩いて行く事も考えましたが、皆さん疲れて来ているようなのでバスで行く事にしました。

五条坂から泉涌寺道まで市営バスに乗り、そこからは緩い坂道を今熊野観音寺まで登っていきます。


途中には「100寺を歩こう会」の100寺巡礼でも訪れた、即成院や戒光寺があり、そこを過ぎて赤い「鳥居橋」を渡れば今熊野観音寺はすぐそこです。

何故赤い橋でその名も鳥居橋なのかと不思議に思いますが、古くからこの地には熊野権現社が鎮まっていたので、それが橋の名前の由来となったと言われています。

即成院山門の上にいる鳳凰は平等院の鳳凰と向かい合っているのだとか?

開基の弘法大師を祀る「大師堂」

今熊野観音寺は古くから京都における熊野信仰の中心地として栄え、現在では頭痛封じの観音さまとしてもあつい信仰を集めています。

熊野へ行くには大変だった為に、お気軽熊野詣が出来るという事だったようです。
見方を変えれば、それだけ熊野に憧れる人々が多かったと言う事にもなります。

現在、観音寺は泉涌寺の塔頭となっていますが、応仁の乱以前は泉涌寺をしのぐ大寺でした

また、境内の東隣には一条天皇の皇后、藤原定子が鎮まる陵があり、定子に仕えた清少納言もこの近くで晩年を過ごしたと伝わります。


今日5つめの御朱印を頂き、これで今日の予定はクリヤー。

時間が余ったら伏見稲荷への初詣も考えましたが、それほどの余裕も無さそうなので、東福寺駅から京都駅、京都駅からは琵琶湖線で車を駐めてある大津まで戻り、早い時間に清水へ戻ってきました。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です