西国巡礼第3回 2日目

第3回、西国観音巡礼 2日目

昨夜は爆睡しました。お陰で昨夜風呂に入ったのかどうかも記憶から消えてしまっていました。
でも、下着は替えて、浴槽も濡れていたのだから多分?入ったのでしょう。最近、夜の記憶が度々消えます。
歳か....

25番札所 御嶽山・清水寺

宿を出てまずは東に向かい25番札所の清水寺を目指します。

西国霊場には清水寺が二つあり間際らしいのでこちらの清水寺は播州清水寺と呼ぶのが一般的です。

白洲正子著「西国巡礼」では
“車を降りてから山上の寺までは、さらに十八丁ほど歩かねばならない”
と書かれていますから、この当時にはまだ境内までの車の登山道は出来ておらず、下から約2Kmの山道の参道を歩かなければならなかったようです。
今では車で10分も上れば山門前の駐車場に到着しますから巡礼旅も随分と楽になったものです。
山門も以前は旧参道を登り切った所にあったようですが、台風で倒壊してしまい、その時にこちらに移されました。

朱色の山門

”頂上へ達して、やれやれと思ったとたん、またしても高い石段がある。登りつめたところは、目もさめるようなもみじの林で、それをぬけると本堂の舞台へ出る。そこからの眺めは、聞きしにまさる美しさだ。幾重にも重なる山のかなたに、播磨灘が霞み、ところどころに名も知れぬ島々が浮かんでいる” <白洲正子著 西国巡礼より>

山門を過ぎて暫く歩けば懸崖作りの大講堂に到着します。

山門を 額縁として寺の秋  一秀

前の林の木々も大きく育ち、白洲正子が訪れた時のような景色を見る事は出来なくなってしまいましたが、本堂前のもみじの林は未だに健在で、綺麗に色づいていました。

二つある本堂の一つ「大講堂」

今回3つめとなる御朱印と散華を頂き、順路に沿って境内を廻ってみました。

大講堂横のモミジの紅葉

本坊から大講堂の裏の石段を上がる

大講堂の一段下段にある本坊、そこから大講堂の裏手を上がり地蔵堂、そして根本中堂。さらに上がるとこの寺の寺名の由来にもなった清水の湧く滾浄水こんじょうすい)があります。

地蔵堂
鐘楼
滾浄水(こんじょうすい)

”多宝塔の裏手には、寺の名の起こりである「清水」があり、叢をかきわけて見せて頂いたが、同じような清水は本堂のまわりにもたくさんあって”
今の状態とはかなり違い,井戸の廻りは叢だったようです。
それに白洲正子が清水寺を訪れた時には昭和40年に台風で倒壊してしまい、今は礎石しか残っていない多宝塔も健在だった時代で、彼女はこの多宝塔に登っています。
そこからは淡路島や小豆島まで見え、六甲の展望台が遙か下の方に見えていたようです。
この多宝塔も是非再建して欲しいものです

多宝塔の礎石

紅葉も完璧な状態ではありませんが、それでも緑、グリーン、赤のグラデーションが綺麗で、真っ赤になる紅葉より品のある紅葉に思えます。

駐車場に戻り、西国霊場の札所にはなっていない番外の花山院に向かいます。

花山院菩提寺

花山院菩提寺 山門

花山院菩提寺は西国巡礼中興の祖となっている花山法皇が隠棲した寺、そして菩提寺でもある寺です。彼は元々は平安時代の第65代天皇でした。
この花山天皇は少しばかりの狂気を持った一風変わった天皇だったと言われています。

この天皇を天皇の座から引きずり下ろしたい藤原道兼らの策謀により元慶寺(番外の寺)で出家させられた花山天皇が隠棲し終の棲家となった寺が花山院菩提寺でした。

有馬富士
七地蔵尊

出家し熊野で修行をしていた花山法皇の前に現れた熊野権現に言われた事が、中山寺に隠された法印を見つけて観音信仰を広める事でした。中興というのは、これ以前に観音信仰を広めようとした人物がいる訳で、これが奈良長谷寺の開基でもあった德道上人でした。彼は62歳で亡くなりますが、閻魔大王の前に行った時に観音信仰を広める指命と、その為の33個の法印を渡されて現世に戻されました
しかし、観音信仰を広めるには時期尚早だったようで、これを後世に託そうと、閻魔大王から渡された法印を中山寺の古墳の中の石棺に隠したと伝わります。

花山法皇殿と薬師堂

德道上人が法印を中山寺に隠してから270年後の出来事というのが前述の花山法皇が体験した熊野で現れた熊野権現からの託宣になります。

花山法皇は中山寺まで行き、この法印を掘り出して、33カ所の西国霊場を定め、今の形の西国巡礼の元を作りあげました。花山法皇は西国観音巡礼中興の祖と言われています。また、このような事から当時の1番札所は中山寺だったと伝わります。

そんな花山法皇が隠棲したのが花山院でした。彼がここに籠もった時、彼を追って都の12人の女房達が麓の寺に住んでいたと言います。今で言えば追っかけのおねーちゃん達。
しかし、花山法皇は一度たりとも彼女たちには逢わずにここで一生を終えています。麓には12基の彼女たちの墓も残っていました。

 山茶花や 散華の如にはらはらと  一秀

麓にある12人の女房達の墓

少しばかりの狂気を持った少し変人の花山法皇でしたが、人を引きつける魅力も兼ね備えていたいたようです。

道兼に騙されて出家した花山法皇でしたが、七日関白と言われた道兼に較べ、花山法皇は未だに観音像と重なり信仰の対象となっている事を思うと、騙された花山法皇が一枚上手だったように思えてきます。

そんな花山法皇の菩提寺として見てしまう先入観からなのか、派手な物が一切無い花山院菩提寺の佇まいには上品な雰囲気を感じます。

花山法皇の廟も境内にあり、これをしっかり拝んでから次の中山寺に向かいました。

花山法皇廟

花山法皇墓所

中山寺

中国自動車道の宝塚ICで降りて中山寺に向かいます。
宝塚といえば連想するのは宝塚歌劇団くらいですが、その地名が表すようにこのあたりは古墳地帯で早い時期から文化が開けていたようです。
中山寺もこの古墳地帯の中にあります。

中山寺の近くまで来たらもの凄い混雑です。
考えてみれば今日は11月18日、七五三のお祝いの時期の日曜日です。

中山寺山門

中山寺は秀吉が祈願して秀頼を授かった話や、幕末の時代、中山一位局が安産の腹帯を授かり明治天皇を出産された事などにより、子育てや安産の御利益で知られる寺ですから、この時期の混雑も頷けます。

 七五三 婆が一番はしゃぎをり  一秀

何とか車を駐車し、境内に入ってみるとビックリするほどの人混みです。それに参道正面には紫色の真新しい五重塔が青空にクッキリと浮かび上がっていました。この五重塔は2013年に来た時には無かったものです。

濃い紫色の五重塔

本堂で今回4つめとなる御朱印と散華を頂き、真新しい五重塔まで上がってみました。紫色の塔なんて随分と奇抜な色ですが、これがなかなか品のあるいい色なのです。

鮮やかな朱の多宝塔
本堂を裏手から見る
大師堂

この中山寺で今回是非見ておきたかったのが、德道上人が法印を隠したと伝わる古墳の石棺でした。
場所を聞いてみた所すぐそこのようです。
帰り間際に見に行ってみたところ、「石の櫃」と説明にはありました。古墳の石室が見学できるように入る事が出来、玄室内にはこれまた超立派な石棺が安置されていました。

石の櫃(からと)
法印を隠したと伝わる石棺

言い伝えによれば、この墓の主は14代天皇である仲哀天皇の前皇后の古墳 となっていますが、どうやらこれは伝の類いで、実際にはこの近隣に住んだ豪族の墓と言われています。

エスカレーター付きの参道石段

真っ赤な多宝塔、紫色の五重塔、そして本堂の外壁は極彩色の彫刻と、花山院とは正反対の派手さ。でも何となく感じが良いのが不思議です。

凄い人出です

勝尾寺へ

時間があるので勝尾寺へ寄っていく事になりましたが、あちこちで渋滞に掛かりながらようやく勝尾寺まで行ってみたら駐車どころの状態ではなく超混雑の人の数です。
駐車出来ない事にはどうしようも無いので、ここは次回と言う事で折角山門前まで来ましたが、パス。

 渓谷や 長蛇の列に降る紅葉  一秀

車を返す時間の午後7寺までに帰らなくてはならないので、ここから茨木ICまで行き、そのまま真っ直ぐに清水に帰還。

今日は朝は宿のバイキング、昼はコンビニ弁当、と侘しい食事になっていたので、夜だけは豪華な食事を!と言う事で、フグ刺しと鰻で、超豪華な夕食になり気持ちよく帰宅となりました。

 

 

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