葛城古道と二上山 2日目

 

二上山

今日はかねてからの念願であった、大津皇子の墓参りの為に二上山の登山です。ピークを二つ持つこの山の標高は雌岳(474m) 雄岳(517m)とどちらも大した事はなさそうで、簡単に考えていました。ところが.....

磐城駅からスタート

早めの朝食を摂り、またまた飛鳥駅へ。これで5回目となる駅への道です。途中尺度駅で乗り換え、8:40am、スタート地点になる近鉄の磐城駅に到着です。

竹内街道

最短コースを選ぶのなら一つ先の當麻寺駅まで行く方が距離は短くなります。しかし、磐城駅からスタートすると、當麻寺の前に出るまでの間、我が国最古の官道と言われる竹内街道を抜けていくコースになり、少しお得感が。

この竹内街道は、これより東に行くと横大路と名を変え、最終的には伊勢に続く伊勢道になり、また途中から北に向きを変えれば山辺の道に接続し、こちらは奈良まで続いています。

竹内街道

前回歩いた時に大和八木で寄った交流館の前を通っていたのがこの横大路でした。

流石にこの街道沿いに並ぶ家は凄いです。これまでに歩いた街道沿いにも豪邸はありましたが、ここの豪邸はそれらとは違うレベル。何より凄いのが完璧に維持管理された屋敷である事です。これだけの家を維持管理するには一体どれ程の経費が掛かるのでしょう。

少し遠回りをしても見る価値十分の竹内街道でした。

當麻寺

當麻寺山門

遠回りをして當麻寺山門に到着。當麻寺は100寺を歩こう会で2015年に来ているのでこれが2回目になります。

境内に入るだけなら拝観料は掛からないので、境内を抜けさせて貰いました。東門から入り北門に抜けます。

當麻寺の本尊は伝説によれば、中将姫が蓮の茎の繊維で一夜で織り上げたという「当麻曼荼羅」が原本になっている当麻曼荼羅

本堂(曼荼羅堂)
東塔(国宝)
中将姫
今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫がいました。後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられました。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかけます。ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきました。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのでした。姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」です。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がりました。當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸です。姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立っていきました。

 

傘堂

ここからが二上山登山のコースになりますが、まだ暫くは舗装路を進みます。

當麻山口神社

左にある朱色の鳥居は「當麻山口神社」の参道入り口になります。今回はパスしました。

大池の手前に一本柱の変わった建物があります。
一見傘の形に見える事から傘堂と呼ばれているこの建物は、郡山藩主本多政勝候の菩提をとむらうため、その影堂として、恩顧の家臣やこの地域の農民たちによって延宝2年(1674)に建立されたものです。

傘堂

一辺が約40cmの四角い一本柱を中心に立て、その上に本瓦葺の方形造の屋根がのる珍しい形の建物で、いつの頃からか、安楽往生を願う庶民信仰の対象にもなっています。

また、左甚五郎が建てたといった伝承もあるようですがこれは伝の類いでしょう。

いよいよ山道へ

大池を過ぎても暫くは舗装路を行きますが、途中に裏向不動明王と石仏三体があります。

裏向不動明王は暗い堂の中の為にどうなっているのか確認できませんでした。どうやら石板に刻まれた不動明王のようですが、これが裏向きになっているようでした。


言い伝えによれば「昔、役行者自ら不動明王の御像を石に刻み、滝のはとりに安置して滝の不動と呼ばれていました。ところがこの不動尊の御霊気が余りにも烈しく人がその前を通ることが出来ないで倒れ、また転げ落ちてしまうので、この像を地に埋めて裏向きにしたところから、いつの間にか裏向不動明王と呼ばれるようになったようです。

この先の祐泉寺からいよいよ山道に入ります。祐泉寺前で休んでいた登山者に聞いた所、祐泉寺前の分かれ道の左を行けば楽なコース。
でも、一旦平らになったあと再度傾斜地を登るようです。右コースは一気に山頂を目指すコースで、こちらの方が大変なコースのようでした。

ここで選択したのは右コースです。山道に入ってすぐは緩傾斜でしたが、先に進むほど傾斜がキツくなってきました。

途中にはほぼ直登とも見える所もあり、前を見るとゲンナリするほどの急な山道です。あまり前は見ないようにして行く方が良さそうです。

當麻寺から1時間20分ほどで雌岳と雄岳の間の馬の背に到着。ここからは10分程度で雌岳山頂に着きました。

二上山 知りて語らず人の性
     大和三山 今日も見遣りて  一秀

雌岳

雌岳山頂からの大和盆地

思っていた以上に大変な山でしたが、雌岳山頂からは東に大和盆地、西には大阪の町が見え、この山の人気の理由がよく分かりました。

山頂には大勢の保育園児が居て、賑やかなこと!
子供達にとってはこの程度の登山は苦にもならないようです。やはり自分たちが歳なのだと納得させられます。

時間もそろそろ昼飯時間なので、雌岳の山頂でコンビニで買ってきた弁当を食べ、雄岳に向かいます。

日時計

遠足の 子等のおむすび大きくて   一秀

雄岳

一旦先ほどの馬の背まで下り、そこから反対側の雄岳への登坂開始。でもこの間は思っていたより簡単に登り切る事が出来ました。

こちらには小学生が大勢居て、山全体が子供達の掛け声で賑やかです。
雌岳の山頂は日時計もあり、休憩できる広場がありましたが、雄岳山頂には看板があっただけ。
この山頂の看板には温度計が取り付けられていました。

雄岳山頂

温度計は12度を示していました。体感よりは下がっているようです。

大津皇子墓

今回の二上山登山は景色を見るという目的は当然ありましたが、それ以上に興味のあったのが二上山の雄岳山頂にある「大津皇子」の墓でした。

古代史の中で悲劇の皇子として知られる大津皇子にはこの時代に関心を持つ人なら誰でもが興味を持つ人物と思います。

前回の「持統天皇行幸の道」の歩き旅は持統天皇の明るい陽の面でしたが、今回は持統天皇の陰の面を見る事になります。

と、いうのも大津皇子は謀反の罪を着せられ享年24歳という若さで自害していますが、この謀反の罪を着せた張本人は自分の子である草壁皇子を次の天皇にしたかった鵜野讃良皇后(後の持統天皇)というのが定説になっています。
大津皇子は実の姉の子だったのですから凄いものです。

大津皇子 二上山墓

山頂を過ぎた所にあるこの墓は想像していた以上に小さなものでした。直径10mあるかどうかの円墳で、回りを一周回れるようになっていました。

正式な名称は「天武天皇皇子 大津皇子  二上山墓」となっています。

これでようやく、以前から一度行ってみたいと思っていた大津皇子の墓をお参りする事が出来ました。

古をしのびつ古道 木の実踏む  一秀

下山

さて、目的は果たしたので下山です。
そうは言っても雄岳の標高は517mありますからそんなに短時間で下山できるものではありません。

最初は尾根の下山道で緩い坂道だったのですが、そのうちにかなり急な山道になってきました。
おまけに小石混じりの山道なので滑りやすいのです。案の定、早速紅一点のTさんがスッテンコロリン。

昨日からの街道歩きで脚力も落ちて来ているので踏ん張りが効かず、尚更の事滑りやすくなってきています。

計画の段階ではこちら側から登る事も考えましたが、その案をとらなくて良かったです。ここを登っていたら、と思うと......

二上神社

ようやく下りきって二上神社まで来ました。ここから二上神社口駅まではあと僅かです。

二上神社口駅ゴール

山頂から丁度1時間でゴールとなる近鉄の「二上神社口駅」に到着です。

登る前は簡単に考えていた二上山でしたが、想像以上に苦労しての登山になりました。ここ何年も登山はした事がなく、せいぜい街道歩きでの峠越えくらいでしたから、自分が思っていた以上に体力は年相応に落ちて来ているのでしょう。

それでも念願の二上山登山が出来、大満足です。

まだ時間も早いので何処かへ寄っていこうと言う事になり、最初は談山神社とも思いましたが、前回寄ろうとして雨の為に諦めた橿原神宮へ寄っていく事にしました。
電車の駅からは近いのでこれなら時間もあまり取られないで済みそうです。

橿原神宮

近鉄橿原神宮前駅

橿原神宮は日本の初代天皇となった神武天皇を祀る神社で神武天皇の畝傍橿原宮があったとされる畝傍山の東麓に明治23年に創建されたもので歴史はさほど古いものではありません。

陵はこの北側にあり正式には「畝傍山東北稜」(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)と、厄介な名前が付けられています。

この稜もそれまでは本当に小さなものだったようですが、明治以降何回かの改修工事が行われ、また、ここに全国から集めた大樹を植樹し、古いものであるかのように見せているのだと言います。

これは明治政府が、そのトップにいる天皇に箔をつけ、自分たちの行った明治維新というものを少しでも大きな出来事に印象付ける為の改修工事だったようです。

しかし、これが天皇の陵だったのかは疑わしい部分も多々あるらしく、建物は凄くてもその中身については随分といい加減なものです。

以前此処にあった寺の塔の基壇だったのではないか?といった説もあるのですから驚きます。

電車を降り、橿原神宮前駅前の広い通りをそのまま真っ直ぐに進むと橿原神宮の表参道に出ます。表参道をそのまま真っ直ぐに進むと右にあるのが南神門で、これを潜ると外拝殿の前の広場に出ます。

一般参拝者が入る事が出来るのは此処までなので外拝殿から内拝殿の奥にある本殿を拝むかたちになりますが、この内拝殿の大きさが半端ではありません。

外拝殿から見る内拝殿

後ろに畝傍山を控えて建つ内拝殿や本殿の姿はいかにも日本の古い歴史を感じる物があるだけに、逆に、形だけの物となってしまっているこの神宮の軽さも感じてしまいます。

橿原や 菊の香纏い旅を果つ  一秀

さて帰ろう!

再び橿原神宮前駅に戻り、飛鳥駅まで戻ります。
飛鳥駅からは通算6回目となる民宿・脇本までの道を歩き、車に戻りました。ここを歩く度に天武・持統天皇陵の前を通りますから、この稜も6回見ている事になります。
前回、今回で天武・持統天皇に関わる古代歴史の現場を見てきましたが、歴史はどちらが正しい、どちらが悪い、と言う事はない筈ですが、結果だけ見れば勝者が正義の味方になってしまいます。
結局、歴史は勝者にとって都合の良い歴史だけが残っていく事になり、敗者は悪者となって歴史に名を残す事になるようです。
それが歴史と言うものなのでしょう。

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