花桃の里 長野県阿智村園原

桃源郷 sonohara

今回も一秀翁に句を送っていただいているので掲載させていただきます。

小人の 旅立ちの門 君子蘭    一秀

 

阿智川の両岸に広がる絶景

4月25日、花桃の見頃を迎えている園原にいつもの寺参りのメンバーで出掛けてきました。

ネットでの開花情報では前日から落花が始まっているようでしたから、丁度見頃なのでしょう。
駐車場の心配があるので早めの6時に清水を出発して、引佐JCTから鳳来峡ICまでは三遠道路を行きます。
中央高速を行くルートも考えられますが、時間的には下道を行っても変わりはないようでした。
鳳来峡からはR151→R153と抜けていくのが一番の近道になり、R256で昼神温泉から少し西に進み、中央高速の恵那山トンネルの入り口あたりから県道477号線を少し進むと花桃が見えはじめました。
入り口でもこれくらい綺麗なのだから、と期待も膨らみます。
AM9:00、園原に到着。

割と空いている!

時間がまだ少し早めなのか、駐車場の空きは十分でした。
しかし、駐車場の係員の話では、前々日の日曜は朝7時で幾つもある駐車場が全て満車となったと言っていました。
その係員が言うには、今日は最高の日だよ。

花桃やコロナ禍の憂さ晴らさんと

 

まさに桃源郷!

川を渡る鯉のぼり
思ったほどの人出でもありません

 

何処までも 赤、白、ピンクの花が続く

 

菜の花は終わったのか?

 

人が少ないのが不思議なくらいの綺麗な景色です

花の状態は少ーーしだけ盛りを過ぎたか?と思いますが十分綺麗です。

明けて早 今日は愛でけり 花桃を

 

何故あまり知られていないのか?

実は丁度10年前にもここを訪れていました。その年は開花も遅く、ゴールデンウィークの始まった頃の日曜に訪れたのですが、駐車場はまだ空きがありましたから、この10年の間に広く知られるようになったという事なのでしょう。
しかし、同行者たちは皆、何故、これだけ綺麗な場所なのに、宣伝もしないし、TV番組にも登場しないのか?と不思議がっていました。

それは廻ってきてからの話にして、まずは花桃見学です。
何処まで行っても、花桃、花桃。

来世よりまずは現世の桃源郷

 

ピンクと赤と白、黄色の菜の花、山の緑と、これらが相まって綺麗です。

犬は色盲と言うけど、どのような世界に見えているのでしょう?

恵那山トンネルの残土置き場が桃源郷に生まれ変わった!

ここの花桃の木は、地域内に一見だけある旅館「野熊の庄 月川」の主人が平成の初め頃植え始めたのがそのスタートだったという事でした。
何か河津の「河津サクラ」の話と似たところがあります。

地域内を流れる阿智川の右岸に沿って上がり、途中で左岸に渡って戻ります。
何処まで行っても花桃の景色は綺麗なのですが、他に店が有るわけでもなく、ただただ花桃を愛でながら歩くだけです。

一周して戻り、少しだけある屋台店で少しだけ腹を満たして休憩。園原を訪れた客がお金を使うところはこの場所しかありません。

と、ここで、先ほどの「何故、ニュースや旅行番組でも見ることが無いのか?」という話になります。
花桃の咲く地区内に一般住宅は一軒もなく、有るのは旅館一軒だけです。人が訪れるのは花桃のこの時期のほんの一瞬だけと思われます。
現在以上の観光客が来るとなると、駐車場の拡充、トイレの設置、また、それ以上に肝心なのは経済的な潤いを得るための食事処や土産物店でしょう。
しかし、花桃の一時期のためにそれだけの投資をしても割に合いそうもありません。
散策路の途中には「恵那山トンネル」掘削時の土捨て場としてこの地が使われた事を説明した記念碑がありました。当時の日本道路公団との契約は工事完了後の原形復旧を条件としたようで、工事完了後にそれなりの整地がされて返還されたのでしょう。

恵那山トンネルの掘削時、残土捨て場として使われた事を説明する記念碑

記念碑の説明によれば原形復旧された面積は3万平方メートルとなっていました。ビックリするような広大な面積ではないようですが、元々それ程広い地区でもありませんから、現存する平地の殆どはこのときに返還された土地なのでしょう。
旅館の主人が花桃の苗を植え始めたのは土地の返還から数年後の事になるようです。
その当時は、まさかこれほどの絶景が生まれるとは思ってもいなかったのかもしれません。

この園原という地について調べてみるとへぇー!と思うことが幾つも見つかりました。
先ほど通って来た国道256号線は伊那谷と木曽谷を結ぶ「はなもも街道」と呼ばれる道路で街道沿いでは数千本の花桃を楽しむことが出来ます。
この花桃街道の始まりは実業家で政治家、また日本の電力王と言われた福沢諭吉の娘婿の福沢桃介が大正11年、ミュンヘンで三色に咲く花桃を見かけ、3本の苗を購入し木曽の発電所の庭に植えたのが始まりと言われています。
この発電所というのが中山道を歩いた時に須原にあった須原水力発電所でした。また、桃介の名にもなにか記憶があるので中山道の時の記録を見てみたら南木曾町でみた「桃介橋」がありました。これは桃介が読書発電所を建設したときに資材運搬のために架けた橋という事でした。

中山道を歩いた時、南木曾町で見た「桃介橋」

意外な所に園原の花桃に繋がる部分を見つけ何か嬉しくなりました。

また、時代はずっと遡り、今から1300年前、朝廷は全国支配のために滋賀県の瀬田から宮城県の多賀まで続く延長1000キロに及ぶ東山道を建設しています。
この東山道の最大の難所が現在の岐阜と長野の間にある「神坂峠」で、現在はこの下を恵那山トンネルが通っています。
こうした難所は都にも伝えられたらしく、神坂峠や園原は古事記や日本書紀、枕草子、源氏物語など多くの古典文学にも登場していると知り、またまた、へぇーーー!とまたまた驚き!

苗木城趾 中津川市

さて、園原の歴史はこれくらいにして、次に向かいます。といっても今日予定したのは花桃と恵那市明智町の大正村だけです。これでは時間が余ってしまうので、中山道ウォークの時に寄った「苗木城趾」に寄っていくことにしました。
寄り道したところで、大した時間は掛からないでしょう。

大きな自然石と人工の石垣で作られた天守台

7年ぶりの苗木城跡で2度目になりますが、大きな自然石をそのまま利用して築いた石垣はやはり迫力があります。途中に居たボランティアガイドさんによれば、苗木城は遠山氏の城で、遠山氏の城は他にも岩村城と明智城があり、三つの城持ちという事でした。

三の丸にある「大矢倉」
大矢倉

岩村城は既に行っていますから、今日これから行く明智城趾をみれば遠山三城を制覇となります。
平日と言う事もあり、自分達以外には数人の観光客しかいませんでしたが、城跡は静かなのが一番です。

苗木城 木曽川望み 楤芽掻く

 

天守展望台
天守台からの恵那山

天守跡の展望台まで行ってみても、恵那山は今日も頭を雲に隠してしまっていました。恵那山の山頂にはなかなかお目に掛かれません。
眼下を流れる木曽川の両岸は広葉木のようです。秋になれば綺麗に紅葉するのかもしれません。そんな時期にはここからの景色もさぞかし見事なものになるのでしょう。

千石井戸。ここで城内の飲料水を賄えたとは思えないが?
二の丸跡

日本大正村 恵那市明智町

黒壁が続く

さて、苗木城趾見学も終え、明智町に向かいます。
明智という地名を持つだけに、明智光秀の生誕地合戦にも加わっていて、NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」放送時には大河ドラマ館も作られていたようです。
光秀の出生地と名乗りを上げているところはあちこちにあり、岐阜県可児市の明智城趾、恵那市明智町の明智城趾、大垣市の多羅城、瑞浪市、山県市など、光秀の出生がハッキリしていないことから、それぞれが自分の所だ!と頑張っています。
日本大正村となっているのは町全体を大正村として保存しており、明智町=大正村となっています。また大正村は公益財団法人日本大正村という法人になっています。

大正のロマン漂ひ風光る

 

駐車場に車を置いて、村内に入ります。
以前来た時にはもう少し賑やかだったような気もしますが、平日と言う事もあり静かです。というより、自分達以外の観光客が見あたりません。
確かに、この街並みだけで観光客を呼ぼうとするのはかなり厳しいと思います。
出来れば遠山氏の明智城趾まで行ってみたかったのですが、腰の痛みが疼き出したためにこれは諦めました。

郵便局
日本大正村第2代村長として16年間就任していた司葉子の記念館
大正村資料館
遠山氏の屋敷内にあった事から遠山桜と呼ばれている

各施設も入館料を取られるわけではないのは良いのですが、そうかと言って、何か買っていこうとしても、駐車場の横にある「大正浪漫亭」くらいしかないので、もう少し土産などの買い物を楽しめるところが欲しいです。
3時過ぎには明智を出発することが出来、明るいうちに清水に戻ってくることが出来ました。

笑ふ山見遣りて今日のふる里は

 

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