コロナを乗り越え坂東観音巡礼再開

昨年1月以来コロナ騒ぎの為、坂東観音巡礼も既に1年10ヶ月も途絶えています。
出掛けたくても今年8月のコロナ感染拡大の感染数を見た時には、暫くのあいだ観音巡礼の再開はとても無理と思っていました。

しかし、8月以降は感染者数は激減。不思議なくらいの急カーブで、8月のピーク時には25,000人/日ほどに上がっていた数も200人程度までの急降下。
第3回目の坂東巡礼の計画を起てたのは9月下旬でしたが、その時にはまさかここまで減るとは思ってもみませんでした。

出来る事なら群馬まで出掛けるのですから、一泊二日にしてノンビリと奥日光泊りで廻って来たかったのですが、再開初回は安全優先で日帰りとしました。

事前の計画では朝5時に清水を出発すれば何とか3寺を廻ってくる事が出来そうでした。ただ、今回は前回(と言っても約2年前)に取りこぼした埼玉県内の慈恩寺をクリヤーしておきたいので、正確には埼玉県の札所1カ所に群馬県の札所2カ所の3つの寺を廻る事になります。

慈恩寺を廻る事により無駄な時間が掛かりそうですが、今回で片付けておかないと後々厄介な事になりそうなのでやむを得ず時間が掛かるのを承知で廻る事にしました。

東名高速も集中工事の最中ですが、幸いにも下り線のようで、渋滞知らずで海老名JCTまで進みました。
ここから圏央道に入り東北自動車道が交差する久喜白岡JCTまで行って、そこからは東北自動車道を南へ。
蓮田スマートICを降りれば慈恩寺までは十数分の道程です。

12番札所 慈恩寺

慈恩寺三門
慈恩寺の境内。大きな銀杏の下にはギンナンがいっぱい

ようやく計画通りの時間で今回最初の訪問地、坂東十二番札所「慈恩寺」に到着しました。
慈恩寺そのものにはそれほど興味の沸くものはありそうもありませんが、一つだけあれ?と思うものがありました。

またまた八百屋お七との縁

本堂前右手にある金銅製阿弥陀如来坐像は天和2年(1682)の江戸大火、通称「八百屋お七の火事」で亡くなった人々の供養のために造られたようです。
これまでにも何度も八百屋お七にかかわる事がありましたが、またまたのお七登場です。

本堂手前の南蛮鉄灯籠の奥に阿弥陀如来座像

お七との関わりの最初は東海道を歩いた時の鈴ヶ森刑場。鈴ヶ森で初めて処刑されたのがお七だったようです。2回目は島田宿まで来た時に出会ったお七が惚れた寺の小姓「吉三郎」の墓。吉三郎はお七が処刑されたあと、お七を弔いながら旅を続けていましたが、ここ島田で亡くなったのだそうです。
しかし、吉三郎の墓は島田以外にもあちこちあるようでした。それほど有名人だったという事のようです。
3回目は中山道ウォークの初日、東京文京区の白山で見たお七の墓所。4回目は甲州街道を歩いた時の初狩宿。ここに芭蕉の句碑がありました。

山賤の おとがいとづる 葎かな  芭蕉

芭蕉はお七の起こした江戸大火で焼け出され、姉の住む初狩に疎開していたらしく、その時に詠んだ句のようです。
そして、今回の阿弥陀如来坐像ですから、これが5回目。お七とは何かの縁があるのでしょうか?

特徴のないお寺ですぐに記憶から消えてしまいそうです。
寒いと思っていたのに暑いくらい。

玄奘三蔵の遺骨

ここで是非見たかったのはあの三蔵法師の遺骨が納められているという「玄奘霊骨塔」でした。
あの西遊記のモデルとして知られる三蔵法師の遺骨が分骨されてこの慈恩寺に納められているのです。

えっ?と思うような話ですが、中国にあった玄奘三蔵の遺骨は「太平天国の乱」の時以来、行方不明になってしまっていました。

玄奘三蔵の旅の足跡。その距離は3万キロになるとか。

これが偶然にも昭和17年、南京で稲荷神社を建立しようと工事をしていた日本軍によって石棺が発見され、これが行方不明になっていた玄奘三蔵の遺骨の入った石棺だったというのですから驚きです。

この遺骨が分骨され、日本に入ってきました。
来日した霊骨は当初、芝の増上寺に安置されましたが、第二次世界大戦末期、東京では空襲が始まっており、万が一の事を考えいろいろと検討されましたが、最終的には慈恩寺が平安時代に慈覚大師の開基であり、三蔵法師ゆかりの長安の大慈恩寺からその名をとって慈恩寺と名付られた由来もあった事から、この慈恩寺に納められました。

昭和28年に落慶した十三重石塔
塔は東武鉄道、根津氏の寄贈によるもの。

終戦後、日本国内では、戦時中に中国政府から贈られた霊骨ではありますが、戦時下の事で、このままで良いのか・・という思いも生まれていきました。

この頃、慈恩寺に寄宿しておられた仏教連合会顧問の水野梅暁師が新中国の蒋介石主席と親交もあった事から、主席の意向を伺うことになりました。
昭和21年12月、霊骨奉安3周年記念法要の際、蒋介石主席の意向が伝えられました。
「霊骨は返還に及ばないこと、むしろ日中提携は文化の交流にあり、日本における三蔵法師の遺徳の顕彰は誠によろこばしいことであり云々・・・、との返事があった事から正式に慈恩寺の地に霊骨塔建設が決定し昭和28年5月に完成、落慶式が行われました。

その後、台湾仏教界から遺骨の分骨の要請もあり、台湾では慈恩塔・玄奘寺を建立し、ここに霊骨が奉安されました。
国内に於いても昭和55年に奈良薬師寺より分骨の願いがあり、薬師寺では玄奘三蔵院を建立しここに分骨された遺骨が納められました。

玄奘のインド(天竺)への旅は17年間に及びその総距離は3万キロにもなったといいます。現在日本国内にある経典もその元は玄奘がインドから持ち帰った経典から訳されたものなのですから、日本の仏教の元を作った大偉人ともいえます。

しかし、玄奘が生きた時代は既に中国でも仏教が広く伝わっていたのに何故インドまで行かなければならなかったのでしょうか?

玄奘がインドへ旅立った理由

仏教はインドから中央アジアを経て、中国に伝わっていきました。この時、さまざまな仏典がばらばらに伝わり、中国語に翻訳されていきました。
しかし、インドと中国では文化の違いや基本的な考え方の違いから正確には訳し切れないことも多々あり、経典によって説かれている内容があまりにも違い、そして解釈もさまざまなので、勉強すればするほど、聡明であればあるほど、わけがわからなくなる状況が当時の中国の仏教界でした。

玄奘はまさにそういう時代にいました。そして重要な仏典がまだ中国に伝わっていないことに気付き、それを学ばなければ本当のことはわからない、中国の仏教はいつまでも中途半端なものに過ぎず、人々の苦しみを救うこともできない、と考えインドへの旅を思い立ったと伝わります。
しかし苦難の末、玄奘がたどり着いたインドで見たものは、既に衰えつつあるインドの仏教の姿だったようです。

西遊記などで知られる超有名な三蔵法師なのですが、一時行方不明になったいたその遺骨が日本軍により発見され、遺骨が慈恩寺に分骨されて納められているという事はあまり知られていないようです。
自分も、日本に玄奘三蔵の遺骨を納めた寺があるという事を知った時から、是非一度お参りしてみたいと思っていた事がようやく叶いました。

石の亀は何を表すのか?
玄奘霊骨塔の門。中華風です。

 

15番札所 長谷寺

坂東札所には長谷寺が3つあります。まずは4番札所、巨大な十一面観音像がある長谷寺。次が6番札所の飯山観音と呼ばれている長谷寺、そして3つめが今回訪れた白岩観音と呼ばれている長谷寺。ただ、この長谷寺の読みだけは「ちょうこくじ」となっています。
宗派は金峰山修験本宗とあるように、奈良吉野の金峯山寺を本山とする寺院で開山は役行者となっており、創建は奈良長谷寺の徳道上人とも、また行基とも伝えられていますが、行基はいったい坂東の各お寺を幾つ創建したのか?
坂東の札所で行基創建となっている寺はその創建が殆ど同じ時代。その時代、行基は奈良で公共事業に忙しかったはずで、朝廷の弾圧も厳しかった時代という事を考えれば、行基創建となっている寺は殆どが伝説の類いなのだろうと推測出来ます。
しかし何故、揃いも揃って行基、また徳道なのか?

本堂ばかりでなく全てを修復中。

岩槻の慈恩寺から群馬県高崎の長谷寺まではかなりの距離があります。圏央道にに乗り、関越自動車道に入って、約2時間後の11:55、ようやく長谷寺に到着しました。

山門
山門で睨みを効かせる真っ赤な仁王

長谷寺は現在全面改修中(新築かと思ったがそうではなく修理のようでした)でほぼ完成はしているようですが、本堂内にも入る事は出来ず、ただ御朱印を貰うだけになってしまいました。
そんなわけで、特別書くべき事も無く、昼飯時でもあり、そうそうに今日3つめの札所、水澤寺に向かいました。

16番札所 水澤寺

長谷寺からは近く、30分程で到着しました。水澤観音で知られる水澤寺ですが、水澤うどんでも知られています。当初の予定ではコロナの事も考え、コンビニ弁当を買って車の中で済ませる予定でしたが、やはりコンビニ弁当では寂しいです。
折角だから水澤名物のうどんでも食べようという事になりました。

水澤寺三門

水澤うどんを食す!

水澤うどんは香川の讃岐うどん、秋田の稲庭うどんと共に日本三大うどんとして知られていて、元々は僧侶達が参拝者に振る舞ったのがその始まりと伝わります。
また、その歴史も古く江戸時代初期で400年程になるようです。
辺り一帯うどん屋ばかりで、こんなご時世でもどこの店もかなり混んでいるようでした。
適当に空いている店を選んで入ったら、かなり時間が掛かってしまうので、他の店に行った方がいい、という店の勧めで他の店を探すことに。
向かいにあった「清水屋」さんに入りましたが、結局こちらでもかなりの待ち時間。これなら先ほどの店でも同じようなものではなかったのか?
偶然入った清水屋さんだったのですが、どうやらこのお店、水澤で初めてうどん屋を始めた元祖水澤うどんのお店だったようです。
しかし、水澤名物といってもやはりうどんはうどんです。それに結構割高です。
腹も何とかなり、今日の最終訪問地である水澤寺へ。自分は初めての寺でしたが、皆さん結構来た事があるようでした。

二階部分もある立派な楼門
三門内の雷神

二人だけ門前で車を降りて石段を上がって正規ルートで参詣です。
参道より登っていくと、仁王門があり、仁王尊と風神・雷神が祀られており、
極彩色の楼門の上には、釈迦三尊(釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩)が祀られています。

本堂
天明7年に大改修を完了している

石段を上がりきると正面に本堂、その右手には六角堂や更に右手に釈迦堂が見えます。
本堂内には本尊の十一面千手観世音菩薩が鎮座しています。
本堂は六角堂・仁王門と同様に、元禄年間に建立され天明7年に33ヶ年の大改修を終えました。すべての彫刻は彫り抜きとなっています。

 

二階部分には何があるのか?
天明の改修そのままの状態なのだろうか?余りにも綺麗すぎる。

 

特徴的な建物である六角堂は、元禄年間に建立された銅板瓦棒葺の造りで、我が国における地蔵尊信仰の代表的建築物となっています。
地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間界、天人界の六道を守る地蔵尊を祀り、六道輪廻の相を表しております。
回転する地蔵尊を左に3回廻して、心の供養を願うのだとか。 心の供養って?

十二支の守り本尊
弁財天

今日の予定は終了。清水へ帰ります

時間は2時を廻りました。計画とは寺の順番を変えたので時間のずれがありますが、それでも計画からは30分程度の遅れで済んでいるようです。また高速へ乗り入れるインターも変更したので大凡予定の時間には帰れそうです。
でも皆さん立ち寄るところでその度に土産の購入。
最後は野辺山近くの大きな店でしたが、ここまでで全体で買い求めた土産はどれほどになったのか?
まぁ、こうした時間が楽しいのでしょうが.....
寺参りばかりでは辛気くさくなってしまいます。 午後7:00清水に到着。
日帰りで伊香保まで行ってくる事が出来てしまう時代なんですね。昔では考えられなかった行動範囲です。
何はともあれ、その後熱を出した人も居ないようですから、無事に坂東巡礼再開が出来たようです。

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