佐屋街道ウォーク2日目

佐屋街道2日目

さて、佐屋街道ウォークの二日目。
佐屋街道は昨日で良しとしたので、今日は観光です。とは言っても昨日のうちに七里の渡し場と六華苑は見てきてしまったので、取りあえずはまず名古屋市に向かいます。

JR関西線より近鉄の方が早そうなのでそちらで名古屋駅に向かいました。丁度通勤ラッシュ時と言う事で、車内は混んでいます。名古屋駅からは地下鉄・東山線、名城線と乗り継ぎ名古屋市役所前に出ました。
地上に出れば目の前には名古屋城の石垣があります。

名古屋城本丸御殿

しかし、少し早すぎたようで、開門まではまだ20分ほど待たなくては成りません。
東門から正門に廻り時間を潰し、入ろうとすると廻りは殆ど中国人です。最近は何処へ行っても一番多いのは日本人より中国人のようです。

二の丸大手一之門

名古屋城は2015年の1月に来ています。その時には復元工事中であった本丸御殿が一部公開されていましたが、10年掛かった本丸の復元工事も昨年ようやく完成し全ての建物が公開されています

耐震不足で登城出来なくなっている天守

名古屋城の天守は残念ながら耐震不足という事で現在は登城出来なくなってしまっていました。こちらも木造建築での復元工事が決まっていますから、耐震工事をする事なく、このまま取り壊されてしまうのでしょうか?

名古屋城と言えばやはり金のシャチ鉾
改修の為に取り外された石垣の石

まぁ、こちらは4年前に見ていますから、今回は完成した本丸御殿が目当てです。
4年前にはその全体像は見えていませんでしたが、足場も取り外されて何も無い御殿はかなり大きな建物です。総工費150億円で、建物の総面積は3000平米といいますから、坪あたり約152万円
流石に使われている木材の質は最高のもので、見ているだけでもウットリしてきます。やはり無垢の木はいいです。

島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室
不明門

清正石

名古屋城最後の城主は松平慶勝で、生まれは美濃高須藩主、松平義建の4男、この高須家の5男は一橋茂栄7男は会津藩主の松平容保九男が桑名藩主・松平定敬とそうそうたる兄弟が揃っています。
当時この4兄弟は高須四兄弟と呼ばれていました。

戊辰戦争の際には、慶勝は官軍が進む先の大名には官軍への恭順を勧めたといわれ、彼のお陰で戊辰戦争での戦死者はかなり抑えられたのかもしれません。

官軍に最後まで抵抗した会津藩主の容保や9男の定敬が維新後に命を落とさずに済んだのも、慶勝の助命嘆願があったのでしょう。

係の人の話ではまだ天井画などは一部しか完成しておらず、完全に復元工事が完了するにはまだ10年は掛かると言っていました。

玄関と車寄せ

見事な天井
完成状態の格天井。天井はまだ仕上がっていない部屋が多い。

玄関

ゆっくりと本丸御殿を見学し、さて、これからどうしようか?
別に行きたいところも無かったので、このまま車の駐めてある本宿駅に戻る事にしました。
地下鉄で金山駅まで行き、そこからは昨日乗ってきた名鉄電車で本宿に戻りました。

法蔵寺・近藤勇の首塚

10年前に東海道を歩いた時にも寄った「法蔵寺」が本宿駅の近くなのでこちらにも寄ってみました。
法蔵寺は徳川家の始祖・松平親氏が伽藍を建て松平家の菩提寺とした寺で、幼少の家康が、時の住職に就いて、読書きを習ったと伝わります。
松平家の菩提寺というだけにそれなりに立派なお寺で六角堂や、家康を祀った東照宮までありました。

石段の上に鐘楼門
法蔵寺境内全景
岡崎本宿東照宮
六角堂

でも、このお寺への興味は別の部分で、この寺の横には新撰組隊長であった近藤勇の首塚と言われるものがあるのです。

近藤勇 首塚

板橋で処刑された近藤勇の首は京都に運ばれ晒し首になっていました。
これを斎藤一が盗みだし、三条大橋側の誓願寺にいた孫空義天に供養を依頼し、義天の異動に伴ってこの寺に埋められたと伝わります。

昭和30年代に発掘したところ、新撰組に拘わる品が多く発掘された事からも、100%伝の類いではなく、近藤勇の首で無かったとしても新撰組絡みの誰か?だったのかもしれません。

さて、行くところは特別にありませんが、まだ12時前です。
そこであまり遠いところでも無いので、豊川市牛久保にある大聖寺に行く事にしました。
ナビにセットして近くまでは行けたのですが、寺らしい建物は見えません。誰かに聞こうにも人が居ません。
ようやく地元の人を見つけて大聖寺の場所を聞いた所、この先にあるとの事。

言われた通りに行ってみたら
ありました!

今川義元公胴塚

あまりに寂しい大聖寺山門
本堂裏手にある今川義元胴塚
胴塚
こちらは一式刑部の墓

普通の家と言われてもおかしくないような小さな、悪く言えばあばら家。檀家もいないのでしょうか?
実はこの大聖寺には、あの桶狭間の戦いで信長に敗れた今川義元の胴塚があるのです。

首を落とされた義元の遺骸を家臣達が担いでこの地まで来ましたが、遺体の傷みが酷く、駿府まで持ち帰るのは諦めてここに葬ったと伝えられています。

静岡の臨済寺にある義元の首塚はお参りしていたので、是非とも胴塚をお参りしたいと思っていた思いがようやく叶いました。

伝の類いの話なのかも知れませんが、桶狭間とこの豊川の牛久保の位置を考えると本当の事とも思えてきます。
折角お参りに来たのですから、この地下には義元の遺骨が埋まっていて欲しいものです。

さて、佐屋街道は期待した程のものではありませんでしたが、それ以外にはいろいろな物を見てくる古都が出来ました。それよりなにより、いつものメンバーで楽しく元気に街道を歩いてきてこれた事に感謝です。

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