伊豆88遍路_1

 

伊豆88遍路 第一回 1日目

伊豆には江戸時代より伝わる「伊豆八十八カ所霊場」があった事を最近になって知りました。
その歴史は古く、開創800年を超す古刹が多く、これらの霊場の歴史はかなり昔まで遡れそうです。

最近になり、「伊豆霊場振興会」というものが主体になり、「いにしえからの遍路道」を発掘し、いよいよ、遍路道が「歩いて一筆書き」が出来るようになりました。
2016年には「札所0番」として、修善寺に事務所を借りて、お遍路さんのサポート体制を確立したようですが、残念な事に現実面では、実際に遍路する人の数もあまり増えて居ないらしく、この0番札所も近々閉じられてしまうようです。

そもそもの事の発端

以前、毎年出掛けていた友人との旅行も、仲間の一人が4年前に他界して以来途絶えてしまっていました。

たまには昔の仲間だけで何処かに出掛けてみよう、と言う事になり最初、温泉旅行を考えてみましたが、仲間の一人が発した「どうせ出掛けるのなら、何処かを少しでも歩いてこようヨ!」という一言から、この伊豆88霊場を歩く事になってしまいました。

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佐屋街道ウォーク2日目

佐屋街道2日目

さて、佐屋街道ウォークの二日目。
佐屋街道は昨日で良しとしたので、今日は観光です。とは言っても昨日のうちに七里の渡し場と六華苑は見てきてしまったので、取りあえずはまず名古屋市に向かいます。 “佐屋街道ウォーク2日目” の続きを読む

佐屋街道ウォーク_ 1日目

佐屋街道1日目

10年ほど前の2008年から2009年にかけて旧東海道を歩き通しました。その時には宮から桑名までの所謂七里の渡しと呼ばれる船で移動していた部分は電車で移動して良しとしました。
その後、この区間には「佐屋街道」と呼ばれた陸路を行く街道があった事を知りました。

熱田神宮の南で東海道から分岐して佐屋宿まで陸路を行き、そこから桑名までの三里の渡しを船で渡ったようです。

いつもの街道歩きの仲間から、何か良いところを見繕って!と言われ、この街道を思いだし今年初めての街道歩きはこの「佐屋街道」になりました。
調べてみると熱田から佐屋までの距離は24Km程。一日で歩けない距離ではありませんが、ノンビリと行く事にし、桑名に宿を確保して一泊二日の佐屋街道歩きになりました。 “佐屋街道ウォーク_ 1日目” の続きを読む

週刊タイタニック製作_2

 

船尾部分の船底を張る

船底に向かって張っていきます。

船尾の側板の続きです。船底に向かっての張り付けは新しいパーツになりますが、少し材質が良くなりました。最初からこれ位の板材だったなら船尾の上部分ももう少し綺麗に出来たのでしょうが、今になってはどうしようもありません。

材質が良くなった事で、隙間もあまり無く、まぁまぁ綺麗に張る事が出来ました。

片方だけ張っていくと船体が曲がる可能性があるので、左右1枚づつ同時に張っていくような説明になっていました。
しかし、既に張り終えている上の部分の時にはそのような説明はなく、片方を張り終えてから残った片方を張るようになっていました。
こうして張った結果、上部は左右の高さが微妙に変わってしまっていました。 “週刊タイタニック製作_2” の続きを読む

週刊タイタニック製作_1

タイタニック製作16年ぶりに再開

今から15年以上も前、2003年から2005年にかけての2年間、週刊で発行されるタイタニックがあり、この冊子に付いてくるパーツを組み立てていくと100号であの処女航海で沈没してしまった悲劇の豪華客船、タイタニックが出来上がるというものでした。
完成サイズは全長約1,070mmというかなりのビッグサイズです。

ディカプリオとケイトウィンスレットが主演した映画「タイタニック」が公開されてまだ間もない頃だったので、自分も作ってみようと毎週購入し組み立て始めました。

しかし、1号毎に付いてくる部品は僅かな物で、なかなか進んでいきません。それにこれから先の組み立て工程が見通せず、先が分からないまま組み立てていくので、組み立てミスも起きそう。

そこで、12号まで作ったところで製作は止めて、全号揃ってから製作再開と言う事にしました。

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西国巡礼第5回

京都市内5寺

昨年5月に始まった西国巡礼も今回で5回目。京都市内の5つのお寺だけなので日帰りで行く事になりました。

これまでは全て車での移動でしたが、京都市内の狭い所で駐車場を探しながら廻るのでは効率が悪すぎます。そこで今回は大津駅前に車を駐めて、そこからは公共交通機関を使う事になりました

今でこそ、歩く事なしに西国巡礼旅は出来ますが、その昔、歩いて巡礼するしか無い時代、一体どのような人達が西国の札所を巡礼したのでしょう。
百姓は農産物(主に米)の農作業があるから巡礼に出掛ける事は出来なかったでしょうし、商人も江戸時代の豪商ほどの余裕はなかったでしょう。

特に花山法皇が33ヵ所の寺を廻り、西国巡礼の現在の様式が出来上がった平安時代、裕福なのは藤原氏、またその後の平氏くらいのもので、それ以外は寺参りどころでは無かったのではないでしょうか? “西国巡礼第5回” の続きを読む